石山三四郎

石山三四郎(いしやまさんしろう:1909~1996)

系統:蔵王高湯系

師匠:信濃一郎/佐藤政雄

弟子:石山和夫/石山健一/水戸寛/柏倉喜平治

〔人物〕  明治42年4月28日、山形県山寺村芦沢の大工石山三五郎の長男に生まる。石山家は山寺で二代に亘り大工を家業とし、特に父三五郎は腕はめっぽう立ったが、そのため仕事に追われて胃を長く患い続けた。そうした背景もあって三五郎は、息子には大工を継がせず、木地挽きの修業をさせることにした。
三四郎は山形実業学校から小田原町役場経由で依頼を出し、その結果、大正13年16歳の春から、神奈川県足柄下郡湯本村(現小田原市箱根湯本)台ノ茶屋の信濃一郎に弟子入りして木地を習うことができた。実際には一郎の息子の延吉に習うことが多かったという。信濃一郎の家は主に木地玩具を製作していて、三四郎はここでは五つだるま(組み達磨)、ヨーヨー、七福神、十二玉子などを中心に挽いた。
昭和4年7月、山寺に戻って独立開業。こけしの描彩は蔵王高湯の岡崎長次郎の弟子佐藤政雄に習った。やがて、山寺宝珠山立石寺境内に店を持つことが出来、ここで営業する様になった。この頃、佐藤政雄は木地を廃業したので、その道具類など一切を譲り受けた。
妻キク(天童出身)との間に健一、正一の二子があり、長男健一は一時木地を三四郎に習ったが、転業した。最初の文献は昭和12年6 月発行〈こけし展望〉第1号で、最近発見のこけしとして二枚の写真と共に、「約15年前箱根にて玩具製作の伝習を受けたが、こけしは山形県東村山郡山寺村に帰郷後製作せりといふ。高湯系と見られるも、独自の風格があって面白い」と紹介している。その後、〈こけしと作者〉でもこけし写真とともに紹介された。昭和14年に足踏みロクロから動力ロクロに変えた。
昭和20年10月には弟の石山和夫が、昭和23年には甥に当たる水戸寛が弟子となって木地の修業を始めた。
明治100年を記念して山形こけし会が、その記念事業として推進した「こけし塚」の建立に際しては、石山三四郎は和夫とともに努力し、その結果昭和44年10月に立石寺に隣接する日枝神社境内に竣工の運びとなった。
長男の健一は鉄工所勤務をしていたが、昭和48年より三四郎について木地を学び、こけしの製作を始めた。
戦後も長く山寺でこけし製作を続けたが、平成8年2月16日88歳で亡くなった。

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石山三四郎

〔作品〕 木地は小田原での修業であるが、こけしの描彩は佐藤政雄に習っている。佐藤政雄は山寺の旅館の息子で、蔵王高湯で万屋の岡崎長次郎について木地を学んだ人。
したがって、石山三四郎のこけしは蔵王高湯の流れを汲む。また、佐藤政雄から道具一式を譲り受けた際に、その道具箱に古い蔵王のこけしが一本入っていて、それを見本としたとも言う。初期の作品は、蔵王高湯の様式、特に胴模様は赤と緑の交互の重ね菊で、能登屋の手法に従っている。道具箱に入っていた一本は、能登屋のこけしだったかも知れない。

初出の文献が昭和12年6 月発行〈こけし展望〉であるから、昭和12年3月の記入のある下記二本は蒐集界に残る極初期の石山三四郎であろう。能登屋の岡崎栄作を思わせる作風である。三四郎の重ね菊の最下花弁は大きく下に下がる傾向があるが、この二本は限りなく水平に近く古風である。

〔右より 30.4cm、30.3cm(昭和12年3月)(池上明)〕 久松保夫旧蔵
〔右より 30.4cm、30.3cm(昭和12年3月)(池上明)〕 久松保夫旧蔵

下記も12年頃と思われるが、〈こけしと作者〉に掲載されたものに近い。〈こけし辞典〉に掲載された鹿間旧蔵は、最初期昭和5年頃の作といわれるが、むしろ下掲の右端の近い。昭和12年頃の作ではなかろうか。

〔右より 23.8cm、30.3cmz(昭和12年頃)(池上明)〕
〔右より 23.8cm、30.3cmz(昭和12年頃)(池上明)

下掲は、尺4寸ほどの大寸で、面描も三四郎にしては珍しく雄渾、異色の作品である。柏崎の大蒐集家痴護之舎岩下祥児が旧蔵していたもの。このこけしの由来は無為庵閑話に詳しい。

〔42.1cm(昭和13年頃)(池上明)〕 痴護之舎岩下祥児旧蔵
〔42.1cm(昭和14年頃)(池上明)〕 痴護之舎岩下祥児旧蔵

下掲も痴護之舎からでたもので、昭和14年ごろの二本。

〔右より 12.2cm、21.5cm(昭和14年頃)(鈴木康郎)〕 痴護之舎岩下祥児旧蔵
〔右より 12.2cm、21.5cm(昭和14年頃)(鈴木康郎)〕 痴護之舎岩下祥児旧蔵

下掲は、実は石山三四郎かはっきりしていない。昭和15、6年頃仙台の陸奥売店で売られていた。作風から三四郎ではないかといわれている。胴にトンボと思われる模様が、花芯のごとくに重ねて描かれている。子を失った母千代女の「とんぼつり今日はどこまで行ったやら」のような遠くを目で追う表情が印象的である。

〔22.5cm(昭和15~6年)(箕輪新一)〕 陸奥売店のゴム印あり
〔22.5cm(昭和15~6年)(箕輪新一)〕 陸奥売店のゴム印あり

下掲は戦後初期の作例、戦後の三四郎のこけしはこうした様式を基調として製作され続けた。目じりが下がるのが次第に目立つ様になる。

〔右より 19.8cm、19.0cm(昭和24年)(池上明)〕
〔右より 19.8cm、19.0cm(昭和24年)(池上明)〕

こうした蔵王高湯からの継承によるこけしの他に、新考案の童子が笑った顔に薔薇の胴模様のこけし等も作った。

系統〕蔵王高湯系

弟の石山和夫、長男の健一、弟子の水戸寛、有路静夫、和夫の弟子の白鳥保子が三四郎の流れを汲むこけしを作る。
弟子の柏倉喜平治は、こけし製作を始めて2年足らずで亡くなってしまった。

〔参考〕

 

 

 

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