太田庄吉(おおたしょうきち:1875~1910)
系統:
師匠:今野新四郎/佐藤久吉
弟子:佐藤三蔵/佐藤栄三郎
〔人物〕明治8年12月7日、宮城県名取郡秋保の大工太田庄之助、つやの長男に生まれた。庄之助の家は代々農家であったが庄之助の代に大工になった。庄之助は大工の傍ら、雑貨店も経営し、駄菓子などのほかに仕入れた木地物なども売っていた。庄吉の母つやは庄吉、庄助の二男を生んだあと亡くなり、庄之助は名取郡坪沼の佐藤家から後妻にふみを迎えた。庄之助は最初は庄吉を大工にしようと考えていたが、秋保の旅館佐勘の主人の勧めもあり木地の技術を身につけさせることとして、芋沢の今野新四郎に庄吉を弟子入りさせた。実母のつやが愛子の出で、新四郎の家とつながりがあったことによるという。
新四郎の技術はダライバン式の車輪に綱をつけて引く二人挽きであった。庄吉は秋保にもどって結婚したが二人挽きで綱を引く仕事はきつく、間もなく妻は実家に帰ってしまい、二番目の妻も長く続かなかった。そこで綱とりの要らない一人挽きを学ぶべく、明治27~8年ころに柴田郡青根に赴き、約半年ほど丹野倉吉工場の佐藤久吉について足踏みの技術を身につけた。おそらくこのとき、佐藤久吉のこけしの様式も習得してきたであろう。
佐藤三蔵は明治28年17歳で庄吉の弟子となり、足踏みの技術を学んだ。太田庄吉は一人挽きになってから柴田郡富岡村の植野きくを後妻にむかえて、娘きくのをもうけた。きくのは後に小原直治の弟子大沼由蔵に嫁いだが、由蔵は29歳で亡くなる。
太田庄吉の弟子は佐藤三蔵のほかに佐藤栄三郎がいて二年ほど働いたが長く続かず、後に仙台集治監の看守となった。
庄吉の性格は非常に几帳面で木地の腕も冴え、名人肌の職人であった。ただ、庄吉には水癲癇(てんかん)という持病があったため、平穏な生活を送ることはできなかった。最後の発作は明治43年1月6日に庄吉を襲った。庄吉と一緒に材木の整理作業をしていた人の話では、「寒風肌を刺す午前6時、ふと手を休めて何気なく川の流れを見ていた庄吉は突然発作をおこし、乳白色の朝もやがたちこめる名取川に姿を消していった。」という。行年36歳であった。
〔作品〕庄吉がこけしを作っていたことは、佐藤三蔵の証言および庄吉の娘太田きくのの証言からも確かなこととされているが、作品は確認されていない。
〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列久吉家、あるいは遠刈田系秋保亜系
青根の佐藤久吉が作っていた遠刈田古型こけしの様式を秋保の佐藤三蔵へ伝えた重要な工人であったと考えられている。
〔参考〕
- 高橋五郎:秋保の木地業とこけし〈仙台周辺のこけし〉(昭和58年9月)