遊佐雄四郎

遊佐雄四郎(ゆさゆうしろう:1877~1949)

系統:鳴子系

師匠:遊佐佐吉

弟子:

〔人物〕  明治10年7月5日、宮城県玉造郡鳴子木地業遊佐佐吉(幼名 万左衛門)・とよの二男に生まれる。祖父万四郎は高橋直四郎が亡くなった後、妻久の後夫となり佐吉が生まれた。したがって佐吉は直四郎長男直蔵の義弟に当たる。万四郎は直蔵を養育し、現在の高亀の作業場で直蔵、佐吉とともに木地業を続けた。
佐吉は鳴子の滝嶋勘六の長女とよと結婚し、長男雄太郎、さよ、みの、二男雄四郎、まん、とめよの二男四女をもうけた。
文久2年に万四郎は亡くなり、佐吉は成人したので、かねてからの約束であった川向岩淵の遊佐姓の株を譲り受け、遊佐姓になって分家した。ただし、その後も高亀の家で暮らしていたので、雄四郎も幼少期は高亀の環境で育ったことになる。実際に一家で岩淵に写ったのは明治18年ころといわれている。またこの頃、父も名前を万左衛門から佐吉に変えている。
川向岩淵の生活は主として農業であったらしい。田地1町2反部、畑2反部くらいの規模であったという。佐吉は農作業の傍ら木地も挽いたので、雄四郎も18歳より5年間ほど佐吉について木地を学ぶことが出来た。岩淵の農業は兄の雄太郎が継いだ。
明治31年ころ、大沼岩太郎の長女せいの長女きのひの婿となって、本格的に木地を修業することになったが義祖父岩太郎の指導はあまりに厳しく、雄四郎はいたたまれずに約一ヶ月で自宅に帰った。この頃岩太郎のもとには弟の甚三郎の子供たち、甚四郎、甚五郎もいたが生え抜きの木地師であった彼らと比べると、成人してから婿入りして本格的に鉋をとる様になった浅吉、雄四郎ではなかなか比較にならなかったようである。
遊佐雄四郎は岩淵に戻ってしばらく働いていたが、明治36年27才で車湯の原野仁太郎の借家で独立、明治37年には栗原郡一栗村上野目の高橋定吉二女ふみのと結婚した。雄四郎はここでこけしを作り、父佐吉もときに訪れて描彩を手伝ったという。また後の鳴子駅前あたりにあった越後屋と高橋善七家の間の土地に 店を出して、3年ほどここで製品を売ったこともあった。
明治42年には車湯の借家の近くに、家を建てて独立することが出来た。ここでは椀や塗り下を挽き、こけし、臼などの玩具も並べたという。
しかしこの家も鳴子を襲った明治43年旧7月の記録的な大水害のため大部分が流され、10月には新屋敷山道に引っ越すこととなった。
山道の家では木地も挽いて、製品は菅原商店に出していたが、大正に入ると鉄道敷設のための労働力が求められるようになり、雄四郎も次第に工夫として働くことが多くなった。工夫時代には、気の荒い人夫に人間違いで切りつけられ重傷を負ったり、崖崩れで巨石が頭上に落ちるという事故もあり、九死に一生という目に会うこともしばしばあったと言う。
大正15年頃には木地の仕事はほとんどやめて、畑仕事や、佐藤製炭店の薪炭の仕切りなどの仕事を主にする様になった。
こけし製作を再開するのは、深沢要が訪問した昭和15年以降である。蒐集家の要請で作ったこけしは僅かに残っている。
昭和24年10月18日没、行年73歳。性格はおとなしく実直、もくもくと働くタイプだったらしい。酒も煙草も嗜まず、ただ甘いものには目がなかったという。子供は四男三女と恵まれたが、木地を継ぐものはいなかった
遊佐雄四郎の人生とその人柄については、〈こけし手帖・第55号〉に、鹿間時夫による詳細な調査と報告がある。

前列 遊佐雄四郎夫妻 後列左より 雄左衛門、勇吉、雄吉
前列 遊佐雄四郎夫妻 後列左より 雄左衛門、勇吉、雄吉

晩年の遊佐雄四郎
晩年の遊佐雄四郎

〔作品〕 雄四郎のこけしとして現存するのは、昭和15年深沢要の訪問が最初である。下の写真の右端は、〈こけしの追求〉に掲載されたもので、その本文には「この本の口絵に遊佐雄四郎の近作を載せることが出来たのは嬉しい。何とかして間に合わせたいと思った筆者の念願がかなったのである。雄四郎のこけしは、近ごろ最も心ひかれた作品であった。」と書いた。
下掲の左やや上方を見るあどけない作品も同じときの作。肩は頗る扁平で極めて古風である。このとき入手した数本は、西田峯吉、米浪庄弌にも頒けられた。

〔右より 23.6cm、16.3cm(昭和13年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔右より 23.6cm、16.3cm(昭和15年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲の西田峯吉蒐集になる雄四郎は昭和16年の作。肩の低さは深沢コレクションのものに近い。

〔21.2cm(昭和16年)(西田記念館)〕
〔21.2cm(昭和16年)(西田記念館)〕

深沢訪問の後、おそらく昭和16、7年頃に秀島孜の訪問があり、昭和18年には鹿間時夫の訪問があった。下掲写真の左端(大)は秀島孜由来のもの。肩は少し丸みを帯びるが、まだ低い。右端は戦後昭和22年の作、同じ新屋敷山道に住んでいた大沼新兵衛が木地を挽いて、遊佐雄四郎に描彩を依頼したもの。新兵衛木地であるため肩は高い。
いずれにしても残る作品の数は少なく、貴重である。

〔右より 18.5cm(昭和22年)大沼新兵衛木地、28.8cm(昭和16年頃)(日本こけし館)〕 秀島孜、名和好子旧蔵
〔右より 18.5cm(昭和22年)大沼新兵衛木地、28.8cm(昭和16、7年頃)(日本こけし館)〕 秀島孜、名和好子旧蔵

06
〔18.3cm(昭和22年)(鈴木康郎)〕 大沼新兵衛木地
新兵衛の娘君子が長く保持していたもの

雄四郎の描彩の源流がどこから来たものかを考えるのは興味深い。遊佐佐吉由来の古い高亀の手法がおそらく基盤としてあるであろう。胴の流れるような独特の菊花には、短期間いた大沼岩太郎家の影響も考えられる。鬢を角髪(みずら)状に描くのは、大寸の高橋勘治、天江コレクションの伝大沼又五郎にも見られる鳴子の古い手法かも知れない。いずれにしても遊佐雄四郎の作品は、明治期の古い鳴子の手法を留めた貴重なこけしと言えるだろう。

雄四郎の家に男子は多くいたが塗師になったり国鉄、郵便局に勤めたりして、木地を継ぐものはいなかった。雄四郎の型は、高亀の工人で継承するものがあり、高橋正吾は雄四郎型を作り、高橋武俊は雄四郎式胴模様を工夫した作品を作る。

系統〕鳴子系直蔵系列

〔参考〕

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