岡崎久作

岡崎久作(おかざききゅうさく:1864~1930)

系統:蔵王高湯系

師匠:

弟子:

〔人物〕元治元年8月18日、羽前国南村山郡高湯村の岡崎嘉平治、可能(かの)の二男に生まれた。嘉平治と久作父子は、蔵王高湯の果実を持って蔵王山を越えて商い、帰りには魚等の海産物を仕入れて蔵王高湯で商っていた。その途上、久作は青根、遠刈田における木地業を見て、蔵王高湯へ木地業の導入を考え、明治20年に弟の岡崎栄治郎を青根丹野工場の佐藤久吉のもとへ修業に出した。翌21年栄治郎が木地技術を習得して蔵王高湯へ戻ると、後の辻屋旅館の別館付近で魚屋を営んでいた久作は、現在の場所に土産店能登屋を開業した。開業後、弟より木地を学び、能登屋経営のかたわら、こけし等の木地製品を挽いたという。明治18年8月上ノ山の鈴木良邑長女ひでと結婚、栄作、久太郎、せき、よ祢、久助、重雄、久一郎、菊雄、作太郎等七男二女をもうけた。久助、重雄、久一郎は幼死した。長男栄作、二男久太郎は栄治郎より木地技術を習得し、店を手伝った。明治38年父嘉平治が亡くなり、久作が家督を継承した。明治43年に長男栄作に長男が誕生、家名の嘉平治を戸籍名として命名した。
久作は昭和5年7月1日蔵王高湯において没した、行年67歳。
 

〔作品〕未確認。〈こけしの微笑〉により名前が紹介され、下掲の〈こけしと作者〉第八十一図には作品の写真が示されたが、これは岡崎長次郎作であり、〈鴻・13〉にて指摘訂正された。


〈こけしと作者〉第八十一図

下掲は古い蒐集家西田静波(亀楽洞)の蒐集品で鹿間時夫の手に渡ったもの。〈こけし鑑賞〉にも掲載されたが、大阪梅田書房の亀楽洞売立て会に出されたときの亀楽洞のラベルには久作と書かれていた。このこけしは鹿間時夫が斎藤源吉のもとに持参して、久作ではなく源吉の古作であることを確認した。


斎藤源吉〔22.9cm(正末昭初)(鹿間時夫旧蔵)〕西田静波(亀楽洞)旧蔵

このほかに、吉田仁一郎、遠藤幸三のこけしが久作と称されたこともあるがいずれも久作ではないと鑑定された。久作の真作は今のところ不明である。〈こけし手帖・9〉の小野洸氏調査によれば「若いころにこけしを挽いたことはあっても、描彩して店に並べるまでには至らなかったであろう」という結論であった。
久作は栄治郎の兄であるが、こけし製作は行ったとしても、青根で修業して戻った弟の栄治郎作を手本に少数作った程度、おそらくそれは長男の栄作と通じるこけしであったと思われる。

〔伝統〕蔵王高湯系能登屋
岡崎久作は、こけし工人としてより木地産業を蔵王高湯に導入発展させた功労者として評価すべきであろう。栄治郎を青根に送り、また遠刈田や青根の工人が蔵王高湯で職人をする端緒を築いた。蔵王高湯系はその結果として系統として成立した。

 

〔参考〕

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