斎藤源吉(さいとうげんきち:1885~1964)
系統:蔵王高湯系
師匠:斎藤松治
弟子:斎藤源七/橋本力蔵/田中敦夫/鈴木竹志
〔人物〕 明治18年5月1日、山形県蔵王高湯に生まる。酒造業斎藤忠治・いとの長男。忠治は斎藤松治の父勝治の弟にあたる。斎藤家は明治21年まで銘酒男山の製造を家業としていた。源吉の妹まつとつめはそれぞれ能登屋の岡崎栄作、久太郎兄弟に嫁いだ。
明治29年堀田村第三小学校卒業。34年17歳で従兄松治につき木地修業。弟弟子に石沢角四郎がいた。明治38年弘前野砲隊に入隊、40年除隊。明治44年10月成沢の山田熊蔵五女しいと結婚し、翌45年長男源七が生まれた。
大正2年蔵王高湯の洪水で家は一部破損したが、このとき自宅補修にあわせて工場を新設し、本格的に木地挽に従事するようになった。それまでは松治の工場に通って木地を挽いていた。
大正7年シベリアに出征し、約6ヶ月で帰還した。9年橋本力蔵が弟子となり、昭和15年独立して米沢に去った。昭和13年緑屋土産店を開店した。
橘文策により〈木形子異報〉で作者として紹介され、〈木形子談叢〉の新作者展望でも取り上げられた。
昭和25年一人息子の源七が病没した。昭和27年頃、米沢からきた鈴木竹志に木地を指導した。昭和28年山形県こけし会創立に関わった。昭和30年鈴木竹志、32年田中敦夫が弟子となった。戦後は酢川温泉神社役員を務め、また蔵王スキー開発にも尽力するなど地域の活動に貢献した。
性きわめて温厚篤実、ゆったりとして長者の風格があった。70歳以降、胴の花模様の間に寿の宇を入れたりした。また俳句を好み、次のような自作の句をこけしに書き添えることがあった。
借り衣を気にして歩く紅葉狩
かり衣の長し短かし寒の月
まま事にあきてこけしと添寝かな
昭和39年12月21日、山形県済生会病院で没、行年80歳。昭和40年1月24日に山形市唯法寺で告別式が行なわれ、また山形県こけしの会の追悼座談会があった。
右:斎藤源吉 左:橋本力蔵 撮影:森田丈三
〔作品〕斎藤源吉の現存する最も古い作品は正末昭初のもので下掲右端の鹿間時夫旧蔵の7寸5分と、その次の図版に掲げた〈こけし人形図集〉米浪庄弌旧蔵の8寸である。表情大振り優雅で、アルカイックな面描となっている。岡崎久作のこけしではないかとされた時期もあるが、源吉古作と判定されている。この時期のものは胴の肩が張らず、砲弾型に撫で肩になっている。この傾向は昭和一桁代まで続く。
〔 右より 22.9cm(正末昭初)、29.9cm(昭和14年6月)(鹿間時夫旧蔵)〕
右端は西田静波(亀楽堂)旧蔵
〔 24.2cm(正末昭初)(米浪庄弌旧蔵)〕 こけし人形図集図版
下掲3本も昭和一桁代の作例、大寸ものは重量感があり、大振りの角頭をしっかり支えて安定感あるフォルムになっている。表情には甘みは少なく、剛直である。
〔右より 25.6cm(昭和8年頃)(河野武寛)、35.7cm(昭和8年頃)(橋本正明)、22.0cm(昭和5年頃)(鈴木康郎)〕
昭和10年を過ぎると肩がだんだん張るようになる。
〔右より 19.1cm(昭和10年頃)(鈴木康郎)、30.0cm(昭和14年頃)(田村弘一)〕
昭和10年代半ばころには頭部も丸みを帯びてくる。表情の剛直さは徐々に薄れてくる。
〔右より 25.9cm(昭和16年頃)(石井政喜)、24.0cm(昭和16年頃)(鈴木康郎)〕
戦後も亡くなるまで、こけしの製作を続けていた。晩年は田中敦夫などの弟子の木地に描彩した。
下掲は戦後昭和30年代の作、右は前髪後方の青点かわりに緑で寿を書き、左は胴の向かって右脇に寿を書き入れている。頭部はほぼ球状である。
〔右より 24.5cm (昭和33年)、18.6cm(昭和34年)(橋本正明)〕
〔系統〕蔵王高湯系緑屋 源吉の型は田中敦夫が継承した。
〔参考〕
- 鈴木康郎:談話会覚書(30) 岡崎栄作・嘉平治〈こけし手帖・679〉:平成29年8月
- 木人子室:斎藤源吉
- 斎藤源吉さんのこけし : こけしのなかのわたし
- 書肆ひやね一金会「斎藤源吉・源七」 : こけしのなかのわたし