小笠原義雄(おがさわらよしお:1936~)
系統:遠刈田系
師匠:朝倉英次
弟子:小笠原信子/熊谷仁奈
〔人物〕 昭和11年1月22日遠刈田温泉、小笠原久作二男に生まれる。生まれた家は遠刈田新地に向かう橋の手前左側で、寿町の通称六軒長屋とよばれ、隣家には佐藤豊治とその息子たち、三蔵・里見が住んでいた。中学校を卒業後、郵便局に勤めたが、配達の最中に犬に噛まれること4度に及び、長く続けることを断念、昭和27年17歳の時、緑川木工所に入り、緑川玉次郎より木地を習得した。当初、作ったものは主に第一民芸に卸す新型の白木地であった。昭和31年には佐藤今朝吉とともに新型木地を挽き、その後白石の菊地木工所等でも働いた。菊地木工所には斎藤正市他何人かの職人がいた。 昭和35年25歳の時、朝倉英次のもとに行き職人として働いた。その後仙台市東八番町にあった借家に移って、ここの木地工場で木地業を続けたが、この東八番町の借家には、我妻吉助、広井道顕、今野幹夫、佐藤賢一、佐藤正廣等がいて同じ工場で働いた。 その後、太白区袋原で独立し、こけしの描彩を昭和40年頃から朝倉英次に習った。自分のこけしの発表は昭和44年頃である。妻信子も間もなく描彩を行うようになった。師匠英次は昭和48年に没したが、そのあと約3年間英次未亡人きぬの木地を挽いていた。
平成25年に熱心に訪問していた仙台の熊谷仁奈に木地の指導を行った。
現在は、仙台市太白区四郎丸字昭和中でこけし製作を続けている。
〔作品〕 朝倉英次のこけしを祖形とするが、自分で種々の工夫を重ねて小笠原義雄独自の様式も創出している。ビリカンナ(うてらかし)は曲線部に使うことはある程度容易だが平面にあてることは難しいといわれている。義雄は胴の平面部に何段もビリカンナの帯を作り、その凸部に色を付けて、赤、黒交互の段模様をつけたこけしを作ったりした。
〔24.2cm(平成25年)(小笠原義雄)、17.3cm(平成26年)(橋本正明)〕
下掲写真の作り付けは、昭和6年に橘文策が東北巡行の折、遠刈田の北岡仙吉工場で入手した小寸を、箕輪新一の依頼で復元したもの。
〔13.1cm(平成28年)(橋本正明)〕 昭和6年北岡工場で作られた小寸の復元
〔23.7cm(平成28年11月)(橋本正明)〕 小原直治型 山河の響の会
木地、描彩ともに技術的にしっかりしている。
〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列。
〔参考〕