奥瀬鉄則(おくせてつのり:1940~1992)
系統:津軽系
師匠:盛秀太郎
弟子:
〔人物〕昭和15年8月21日、青森県黒石市二双子字村元の豆腐業奥瀬岩吉、シヨの三男に生まれた。姉初江は盛秀太郎の長男眞一に嫁いでいる。昭和34年4月黒石市高等学校(定時制)卒業。高校時代の昭和31年8月より盛秀太郎につき木地修業を始め、同時に畑仕事にも従事した。高校を卒業した昭和34年には秀太郎型を作りはじめ、東京こけし友の会でも頒布された。昭和37年から一般にも販売されるようになった。兄弟弟子に佐藤善二がいる。鹿間時夫は鉄則のことを「性質陽性で社交力に富み、現代型インテリ工人のうちに入る。生け花や茶道を趣味としている。楷書体ではあるが描彩力は優れていて秀太郎古型を復元する力は十分にある。〈こけし辞典〉」と書いた。
実演で上京することもあり、蒐集界では人気の高い工人であった。
丹代條の長女陽子と結婚、昭和45年に長男が生まれた。
師匠の盛秀太郎は昭和61年亡くなり、奥瀬鉄則には後継者としての期待が大きかったが、平成4年6月16日に行年数え年53歳で没した。若くして世を去ったのは惜しまれる。
轆轤に向かう奥瀬鉄則 撮影:佐藤健兒朗
〔作品〕初期には当時の盛秀太郎の様式に従ったこけし、また髷付きなど斎藤幸兵衛の様式に倣ったこけしを作っていた。昭和40年代になって盛秀太郎の正末昭初の古作を復元するようになった。
下掲は、鹿間時夫が昭和44年2月に正末昭初の盛秀太郎のこけしを黒石市温湯まで持参して奥瀬鉄則に復元を依頼したもので、東京こけし友の会の昭和44年3月例会で頒布された。面描の妖しさの表現は必ずしも十分ではなかったが、目じりが下がり、まつ毛の垂れた戦後の盛秀太郎型を見慣れた人々には、この頒布は新鮮な衝撃であった。
〔21.8cm(昭和44年3月)(橋本正明)〕 東京こけし友の会頒布
現代感覚もあり、また盛秀太郎の魅力も十分に再現できた作風であった。
〔右より 36.4cm(昭和62年)、30.3cm(昭和53年)(高井佐寿)〕
〔系統〕津軽系温湯亜系
〔参考〕
- 国府田恵一:盛秀こけしの伝承〈こけし手帖・705〉(令和元年10月)
- 奥瀬鉄則工人のこけし : こけしのなかのわたし – livedoor Blog
- こけし千夜一夜物語 第342夜:鉄則のちょっと変わった幸兵衛
- soudo舎日記 こけしの話 奥瀬鉄則1 幸兵衛型