会田栄治(あいだえいじ:1929~2015)
系統:山形系
師匠:丹野辰彦/神尾長八
弟子:会田稔/会田愛子
〔人物〕 昭和4年10月9日、表具師会田清左ヱ門長男として山形県天童市久野本に生まる〈こけし辞典〉。 隣は平塚安兵衛・斜め前は神尾長八の木地工場があった。 祖父会田清五郎は日本画家で田野耕源清信と号した〈山形のこけし〉。 昭和22年、天童木工に入所。小林倉治の弟子丹野辰彦について木地修業、昭和24年に独立する。( 〈カメイ伝統こけし最新工人録(平成23年版)〉には、昭和20年10月より木地修業とある。) 当初新型こけしを大量に作り、神尾長八が木地を挽き、栄治が新型の描彩をするようになった。 昭和27年長八の没後は旧型こけしの製作を志し、長八の長男敬三朗とともに、昭和29年より長八の型を復活させた。
昭和36年より天童市山元に移り、将棋駒とこけしの店「栄春堂」経営の傍ら、こけしの製作を続けた。 〈日本の木地玩具〉では、修業時代、欄干の擬宝珠を作ったとき、それにこけしの顔を描いて丹野に木地屋をやめろと言われたエピソードを語っている。 〈こけし時代9号〉(平成26年1月)に栄治と妻女愛子の近影が掲載されている。また、製作風景から両差し込み式でこけしを製作していることがわかる。
平成27年3月11日没、行年87歳。
〔作品〕 小林倉吉の弟子であった神尾長八のこけしを継承している。〈こけし辞典〉には昭和44年作が掲載されている。昭和40年代までは様式としては長八型ではあったが、まだ長八の雰囲気を十分に出せたとは言えなかった。昭和50年代に入って多くの長八古品を目にする機会が増え、完全な長八型を作ることが出来るようになった。さらに、長八の様式を母胎としながら、種々の新考案も加え、むしろ会田栄治型と言えるようなこけしを作るようになって、こけし作者としても円熟味を増していった。
神尾長八型という山形系の中でも傍流であったものを発展させて、豊かな意匠形式を完成させ、天童のこけしとして不動の位置を与えた功績は大きい。
〔右より 14.5cm(昭和44年6月)、15.7cm(昭和53年)、29.4cm(昭和54年)こけしの会「古作こけしと写し展」、21.5cm(昭和53年)(橋本正明)〕長八型
〔伝統〕 山形系、神尾長八の伝統。