男沢春江

男沢春江(おとこざわはるえ:1901~1987)

系統:独立系

師匠:見取り

弟子:

〔人物〕明治34年3月15日仙台市に生まれた。町奉行男澤権太夫の子孫という。大正6年に仙台市電気部に就職し、昭和4年に宮城県商品陳列所に転じた。昭和7年仙台八幡町のこけし工人高橋胞吉の作るこけしに憧れ、自ら描彩して仙台市内の桜井玩具店に出品した。木地佐藤巳之助の工房のものを使った。またこの頃よりをこけし応用品の箸やペーパーナイフなども作った。おそらくこの種のこけし応用品の先駆けであったと思われる。数々の賞を得たが、病気のため昭和11年製作を一時中断した。昭和17年には宮城県庁商工課勤務となり、昭和28年10月まで勤めた。退職と同時に丸光百貨店企画部の嘱託となった。最後の木地は福々商会の重松満が挽いていた。その後、東京都西多摩郡秋多町草花字台下(現 あきるの市)に転居した。二子がある。
昭和62年12月16日没、行年87歳。

〔作品〕昭和13年〈東北の玩具〉で紹介されたが、解説には「肘折の弟子仙台寺定禅寺通佐藤某の木地に彩色をしている」とある。翌13年には深沢要の〈こけしの微笑〉で口絵写真に取り上げられて女性描彩者として注目された。赤黒2色のみで描いた。胴の花はボタンを重ね、頭部は秋保式の細い手絡で、一重瞼の瞳は大きい。鹿間時夫は「女性の描彩としては珍しく甘美に偏らない。」と〈こけし辞典〉に書いた。
昭和7年に桜井玩具店主日下コウとともに高橋胞吉の所に行って胞吉型の描彩をする許しを乞うたが、
断られたのでやむを得ず赤黒2色の自己の型を描いたという。それ故本人は「自分のこけしは旧型でない」と言っていて、伝統性に対しては慎重に気配りをしていた。丸光百貨店に入社してから個展を開いたことがあった。
下掲3本は初期の作で面描もまだ一定していない。木地はおそらく佐藤巳之助であろう。特に中央の前垂れを付けたものは珍しい。この弥治郎風の描彩の帯模様は、ロクロを使っていないので前面のみの手描きである。


〔右より 23.4cm、18.5cm、24.0cm(昭和12、3年頃)(沼倉孝彦)〕

下掲は〈こけしの微笑〉口絵に単色で掲載された8寸で、深沢要は「木地屋の女性生活を知る上にも、女性の描いたこけしはもっと集め調べられてもいいのではないだろうか。」と解説を付していた。


〔24.3cm(昭和13年)(日本こけし館)〕深沢コレクション


〔18.2cm(昭和13年)(日本こけし館)〕深沢コレクション 

 

〔伝統〕描彩に関しては、高橋胞吉式の赤、黒二色、手絡は遠刈田風であったが、仙台の高岡幸三郎や加納伝三郎と同様に独自で創作した様式で、旧型を志向した仙台一般型というべきであろう。

〔参考〕高橋胞吉に憧れてこけし製作を始めたので、胞吉型を作りたかったが胞吉から許可を得られず作れなかった。戦後になって胞吉型のこけしも作った。


〔男沢春江の胞吉型(中根巌)〕 春江と署名がある。

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