高瀬善治

高瀬善治(たかせぜんじ:1900~1974)

系統:鳴子系

師匠:小林弥七

弟子:高瀬時男/本田功

〔人物〕明治33年6月13日、高瀬惣左衛門、ミエの四男として、青森県上北郡十和田村大字奥瀬字十和田一六(休屋)に生まれる。〈こけしガイド〉によれば大正5年(推定)17歳のとき、小林弥七より木地を修業、こけしも習ったという。小林弥七は日光の木地職人であるが、この時十和田鉱山に滞留していたので、木地の指導を受けたという。大正7年、独立開業。大正12年10月、山崎スエと結婚。昭和3年に長男時男が生まれた。昭和13年〈こけしの微笑〉に紹介され、昭和14年〈こけしと作者〉に写真紹介された。十和田湖畔休屋で土産物店を営み、そのかたわらこけしを作り作っていた。昭和21年頃より長男の時男が善治の仕事を見ながら木地を挽くようになった。昭和31年には本田功が弟子となってこけし作りを学んだ。昭和40年代に入って体調を悪くし、以後はほとんどこけしを作らなかった。
昭和49年11月27日没、行年75歳。
 

〔作品〕現存最古のこけしでも〈こけしと作者〉〈古計志加々美〉に掲載されたものを遡る作品が発見されていない。すなわち現存の初期作品は昭和7、8年ころのものと思われる。もし善治が若年の折、こけしを作ったとしても相当長期の休止期間があったであろう。大正10年ころ、大湯の小松五平は大湯で売れぬままに十和田の休屋までこけしを売りに行ったという。また昭和10年ころまでは盛んに大沼竹雄などの鳴子こけしが休屋へ移入され売られていたという。おそらく昭和10年頃に他所から持ち込むことが困難になったか、持ち込む量以上の需要が起こったかの理由で高瀬善治が自ら製作するようになったのかもしれない。
下掲は比較的初期の作品で、頭部はオカッパ、胴の牡丹模様はやや硬筆で、胴下三分の二程度の範囲に丁寧に描かれる。均整のとれた形態とともに佳作。優品はこ初期のものに多い。中央の作には肩にわずかな段があり、休屋で売られていた鳴子系のこけしの影響を見ることができる。


〔右より 17.8cm(昭和10年頃)鈴木鼓堂氏旧蔵品、24.8cm(昭和13年)橘文策旧蔵、18.2cm(昭和12~13年頃)(鈴木康郎)〕 

その後、昭和15年ころになると、下掲のように頭頂やや平らになり、オカッパではなく、前髪と鬢を描くようになる。


〔右より 15.4cm、11.5cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕深沢コレクション

戦後はも製作は続けたが、やや線の細い繊細なこけしになっていた。


〔18.0cm(昭和30年頃)(高井佐寿)〕

〔伝統〕鳴子系。 師の小林弥七がこけしを本当に作ったのか不明。善治の様式は休屋に移入されていた小松五平や大沼竹雄のこけしを母体として自分なりに完成させたもののように思われる。独自の創作とみて独立系とする見解もある。

 

〔参考〕

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