柏倉勝郎(かしわくらかつろう:1895~1964)
系統:独立系
師匠:鈴木末吉
弟子:
〔人物〕 明治28年2月12日、柏倉慶重の長男として山形県南村山郡本沢村長谷堂(現山形市)に生まる。生後事情あって実母と生別、長谷堂で里子に出され、3歳のとき山形市七日町の祖父柏倉政明に引きとられて、明治30年5月23日生まれ政明六男として入籍した。政明は鶴岡の鈴木家から山形在の柏倉家へ養子に行った人で、警察官として温海分署長までつとめて退職、勝郎を引取った当時は山形市役所の書記をしていたが、勝郎9歳のとき没した。
勝郎は祖母と共に新潟県村上中学の教師をしていた父慶重のもとへ移った。慶重は明治元年の生まれ、村上中学では鉛筆画、万国地理を教え、教頭までつとめたが、明治41年秋、当時14歳の勝郎と祖母、継母(慶重の後妻なおい)、継母の子四人の計七人を残して41歳で没した。
翌春、一家は継母なおいの実家である鶴岡市鳥居町の木地業鈴木末吉方へ落着き、勝郎は末吉について19歳まで木地を習った。なお末吉の父重久は明治20年頃静岡より木地師を招き、木地を習ったという。重久ー末吉ー勝郎と静岡木地の技術が継承された。なお末吉もこけしを少し作ったという。
大正2年、本荘の河村辰治方の職人となったが、約一週間で旅の浪曲師伊藤遊楽斎の弟子になろうとして飛び出した。しかし遊楽斎に弟子入りを断わられ、辰治方へも戻れず、旅回りの芝居の一座に入って各地を遍歴した。湯沢まで来て一座をやめ、曲木木工所(秋田木工の前身)へ入所、木地の指導員をしていた山形市霞町出身の大物挽き野田久之助のもとで鈴木国蔵などと共に22歳まで働いた。
22歳のとき下宿の主人の世話で、当時20歳のよしのと結婚、その後及位へ行き、佐藤文六のもとで佐藤三治、佐藤誠治、鈴木国蔵、舟生門蔵などと共に働いた。
24歳のとき同じ及位村の落合滝に木工所(新及位製材所)ができたので、その木工所に移り、伊藤奏輔、深瀬国雄、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと共に、主として織物に使う木管を挽いた。
ここに27歳までいて、大正10年夏、金山町下中田の柿崎木工所へ移った。柿崎木工所では弟子を三人ほどつけて勝郎に監督させる約束だったが、実際には形ばかりで時々二、三人習いによこしただけだった。勝郎を雇ったのは当時木地挽が営林署に申請すれば用材を払い下げてもらえたのを利用して製材転売するのが目的だったらしい。柿崎木工所は大正15年9月不景気のため閉鎖した。
それを機に、勝郎は友人のつてで酒田市へ出て片町で独立開業した。間もなく同地の本間儀三郎の依頼でこけしの賃描きをはじめた。「儀三郎の木地は最初鳴子風で太かったが、こけしは子供が握れるほどの太さが本当だと細くするように言った。木地を自分で挽くようになったのは昭和10年頃に深沢要が来訪し、直接注文が来るようになってからだ。」と語っていた。
昭和12年台町へ移り、三ヵ月ほどで横道町へ移った。
昭和17年及位の佐藤文六に頼まれ、6月終わりから一ヵ月半ほど木地を手伝い、8月はじめ、佐藤文吉が徴兵検査を受けるとき同行して酒田に帰った。そして本町七丁目の酒田産業㈱木工部主任となった。こけしは注文があれば作っていたが、このころから注文が途絶えたため、戦後再開するまで作っていない。
昭和19年、勝郎50歳のとき、本間儀三郎に頼まれて儀三郎方で、板垣利一郎、本間久雄などと共に働いた。昭和21年3月儀三郎のところをやめて、復員した長男武典が前年の12月から働いている西田川郡の五十川炭礦へ移った。
昭和25年から26年にかけて酒田市横道町へ出て木地を少しやり、それから東京巣鴨の子供のところで一年間暮らし、昭和27年ふたたび五十川へ戻った。
昭和31年夏、酒田の渡辺玩具店主渡辺賢秀のすすめにより足踏みロクロによるこけし製作を再開した。しかし、昭和34年11月下句に神経痛で製作不能となった。間もなく五十川炭礪も不況のため閉山となり、長男武典が得た退職金で鶴岡市湯野浜町に家を建て、昭和35年3月に一家でここに移った。長男武典は湯野浜の旅館の番頭になった。
昭和36年、蒐集家川上克剛の依頼があり、ロクロを組み立てて30本程のこけしを製作した。その後は他人の木地に描彩したものが若干ある程度で全く製作を絶った。
昭和38年2月2日に妻よしのが67歳で没して以後、気落ちしてかふさぎ込むことが多くなり、昭和39年12月2日山中で亡くなっているのを発見された。幼時母と生別したので捨てられたという気持ちがあり、母性の代償でもあった妻の死は、老境の勝郎にとって耐え難い喪失感だったのだろう。行年70歳(戸籍上は68歳)。
勝郎は身長5尺2寸ぐらいの小柄な男で、勝気な性格であった。声がよく、昭和4年3月、両羽朝日新聞社主催の民謡コンクールで十傑の一人として名人賞を取り、昭和6、7年の不景気な時代には出羽ノ家松月と名乗って木地と民謡の二枚看板で生活したという。息子は木地を挽かず、金山時代に少し習いにきた者も弟子といえるほどは教えていない。ただ本間儀三郎の養子久雄が相当影響を受けていて勝郎の型を継承したこけしを作った。
なお柏倉勝郎の経歴については白鳥正明の遺稿を参考にした。
〔作品〕 柏倉勝郎の作品を最初に紹介したのは武井武雄の〈日本郷土玩具・東の部〉であるが白畑重治名義であった。しかも、その作品に対する評価は低く「支那人臭い酒田のこけしは間が抜けすぎてゐて稚拙のうま味がなく、唯まづい一方だから情けない。(中略)こけし中ビリから一等といふ落第生である。」と酷評した。
柏倉勝郎のこけしを高く評価し、その名前を正しく紹介したのは深沢要の〈こけしの微笑〉である。深沢要は「酒田の旅舎で、柏倉勝郎のこけしをはじめて手にしたときの喜びを私は忘れない。(中略)その愛らしい丸顔、首から肩へかけてのなだらかな線、質朴な菊模様は、全体の形態との調和もとれていて心憎いほどのおぼこ振りである。」と絶賛し、〈こけしの微笑〉の口絵にも勝郎のこけしの写真を掲載した。
下掲は深沢要収集の柏倉勝郎、昭和9年に酒田の旅舎で手にしたこけしであろう。胴の下半にそりがあり、おそらく木地は儀三郎と思われる。儀三郎木地の胴のそりは鳴子の影響といわれる。
儀三郎木地と勝郎木地の判別は、胴底を見ればわかる。儀三郎木地は通し鉋の丸い穴が深く入っているのに対し、勝郎の胴底はふちを残して中を一様に浅く削りこんでいる。
〔25.8cm(昭和9年)(日本こけし館)〕深沢コレクション
下掲は〈こけしの微笑〉の口絵に掲載されたもの、胴下半のそりはなく直胴であり、おそらく深沢要が昭和10年勝郎に自挽きで作らせたものであろう。このこけしは現在、日本こけし館の深沢コレクション中に確認できない。
勝郎は「鶴岡の鈴木末吉がこけしを作っていたのを覚えている。ただこれと自分のこけしとは何の関係も無い。儀三郎の木地に描いたが、その描彩は佐藤文六と深瀬国雄のものを参考にした。」と語っていた。
〔右より 24.7cm、15.3cm、29.5cm(昭和9年頃)、30.3cm(昭和10年頃)、31.5cm、25.0cm、25.3cm(昭和12~15年頃)(鈴木康郎)〕
〔12.7cm(昭和12年頃)(沼倉孝彦)〕
下掲の4寸は、昭和36年蒐集家川上克剛の依頼でロクロを組み立てて製作した約30本のこけしの一つ。
これ以後の勝郎の自挽きのこけしはない。
〔系統〕 独立系 柏倉勝郎は〈こけし辞典〉では一応肘折系とされている。ただ、既存の系統との親近関係は依然不透明であり、ここでは独立系とする。
〔参考〕
- 大浦泰英:〈こけし手帖・ 27〉「五十川に柏倉勝郎を訪ねる」(昭和34年)
- 白鳥正明:〈こけし手帖 ・46〉「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)
- 西田峯吉:〈こけし手帖 ・155〉「酒田の本間久雄」(昭和49年)
- 宮藤就二:〈木の花・22〉「雑系こけしの魅力(2)柏倉勝郎」(昭和54年)
- 川上克剛:〈こけし手帖 ・339〉「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」(平成元年)
- 阿部弘一:〈こけし手帖・ 435〉「私の柏倉勝郎こけし」(平成9年)
- 阿房こけし洞 004: 柏倉勝郎