佐藤今三郎

佐藤今三郎(さとういまさぶろう:1889~1959)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤幸太

弟子:佐藤辰雄

〔人物〕明治22年11月18日、弥治郎の木地業佐藤幸太・すくの長男に生まれる。弟に慶治、味蔵、春二がいた。父幸太は遠刈田で一人挽きを学んで、弥治郎に伝えた重要な工人であり、今三郎はその父幸太について木地を修業した。幸太は大変厳しく、稽古の頃には「山梨ゴマを五升枡に一杯挽け」と言われたが、とても厭きて挽けるものではなかったと今三郎は述懐していた。
弥治郎に落ち着いて、農業、製炭等を兼ねながら木地業を行った。明治43年21歳でふみえと結婚、キク、トシ、幸夫、清夫の四子をもうけたが、長男幸夫は戦死、清夫が家をついで農業を行っていたが、木地業はやらなかった。長女キクの婿養子昇の長男辰雄に木地を教えた。辰雄は弟の慶明、慶春等に木地を伝えた。今三郎には辰雄以外に弟子はいなかった。
生まれつき蒲柳の質であったが、16歳のとき柿の木より落ち、胸を打って肋膜炎を病んでから、それが持病のようになったようである。
31歳と63歳のとき死ぬような大病をし、肋骨三本切除の大手術を受けたため、以後左肩が下がるようになったという。
そのため、木地挽きもあまり活発には行えず、作者として紹介されてからも製作数は多くはなかった。性質は剛毅慎重、弥治郎では有数のインテリであった。鹿間時夫によると「とても話好きで用語に特有のくせと味があった。」という。
弥治郎工人として珍しく酒を飲まなかったのは身体が弱かったことによる。鉄砲打ちが唯一の道楽であった。昭和20年2月弥治郎木炭組合長のとき、白石営林署長を向こうに回してたんかを切ったという武勇伝もある。親友の新山友蔵と「どっづ早ぐ死んでも、生ぎでる方で10円饅頭お墓さ上げっぺゃ」と約束したとかの話が伝わっている。
戦後は殆ど作っていない。鹿間時夫は昭和33年5月に今三郎を訪ねたが、このとき持参した黒くなった古こけしは、今三郎によって佐藤幸太の作であることが確認された。
昭和34年5月19日没、行年71歳。


佐藤今三郎  撮影:水谷泰永


佐藤今三郎と妻女ふみえ

〔作品〕今三郎は橘文策により作者として紹介された。昭和13年の〈木形子・4〉には「佐藤今三郎は久しく中止していたこけしを近時始めた。首に一段作って派手な色を使用する。中年作者として纏まりよく、見るからに垢抜けのした佳作で、一部では弥治郎系中第一とさえ推称されている。」と書かれている。
昭和13年ころから蒐集家の求めに応じるようになったようで、作品もこの頃からのものが残っている。
深沢コレクションには比較的多くの今三郎が納められている。深沢要は昭和14年3月に弥治郎を訪ねて、佐藤今三郎とその母すくから詳細な聞書を得ている〈こけし手帖・17〉。おそらくこの訪問時に多くを求めたものと思われる。
下掲の左端は今から見ると幸太の型を継承したものであろう。


〔右より 24.8cm、31.8cm、25,8cm(昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔右より 17.9cm、8.5cm(昭和14年)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

下掲のように手描きの模様の古風な作品も作った。ややはすに上方を見る童子の面影がいい。


〔 12.1cm(昭和14年頃)(池上明)〕

下掲の右は、肩にビリ鉋が入った珍しい作品、手描きの着物模様で、巻絵(ロクロ模様)が始まる以前の古い様式かもしれない。頭部の複雑な様式も古風である。


〔右より 32.1cm、19.3cm(昭和15年)(高橋五郎)〕


上掲こけしの頭部描彩


〔 26.3cm(昭和15年)(西田記念館)〕 西田コレクション

身体が弱く、絶えず死に直面し続けるような生涯であったことが、今三郎のこけしに単なる甘美さを越えた何ものかを付与しているように感じられると鹿間時夫は言っている。

〔伝統〕弥治郎系幸太系列

今三郎型のこけしは、佐藤辰雄、慶明、慶春兄弟のほか、佐藤英雄、高田稔雄、吉野稔弘等が作る。

 

〔参考〕

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