川越謙作

川越謙作(かわごえけんさく:1911~1959)

系統:津軽系

師匠:川越謙次郎/太田多一郎

弟子:

〔人物〕  明治44年1月19日、青森県中津軽郡藤代町(現弘前市)大字藤代字川面125の農業川越忠吉、たみの五男に生まる。少年のころより絵が上手だった。村立致遠小学校、中津軽郡玉成高等小学校で学び、大正15年4月1日、17歳のとき、弘前市鷹匠町の兄謙次郎に弟子入りした。7年あまり木地を習い、昭和7年10月に独立し、翌8年4月に太田キサと結婚した。同時に弘前市和徳町へ分家し、荒物雑貨商を営むかたわら木地を挽いた。
昭和19年海軍に召集され、昭和20年9月復員した。この間に留守宅は平岡町43の兄謙次郎の材木置場の一隅に移転していた。復員後はロクロを持たず、妻キサと共に夏はアイスキャンデー、冬は焼芋の行商で生計をたてていたが、昭和34年7月15日、急性肺炎のため元寺町の健生病院で没した。行年48歳。
川越一家のこけしは兄謙次郎が、昭和5年7月ころ弘前の木村弦三氏の依頼で同氏所持の作品に似せて作ったのが最初で、謙作が最初に作ったのもおそらくこのころと思われ、胴の太い眠った頭は謙作が考案したという。また一説には各地を遍歴した工人太田多一郎の教示によるともいう。
戦後は、ロクロがないため注文があると兄謙次郎の口クロを借りて木地を挽いて自宅で描彩し、昭和33年10月ころからは、弟弟子の室越良平(東京下谷出身)の挽いた木地に描彩したという。謙作没後、息子の祥行が一時室越良平の木地にこけしの描彩を作った。
川越謙作の経歴については、兄謙次郎や未亡人キサより詳細な聞書きを取った中沢鑅太郎の記述〈こけし手帖・45〉によるところが大きい。

川越謙作

川越謙作

 〔作品〕  胴のくびれた型と直胴のずんぐりした型 (5寸以下の小寸物のみ)とがあり、目を閉じているので眠りこけしと呼ばれる。初期の作品は頭が扁平で全体にずんぐりしており、表情もよく、佳作である。以後、しだいにフォルムが平凡になり、描彩も甘くなったが、戦前の作品は全体に、小寸物に良作が多い。

〔 12.1cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
〔 12.1cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション

木村弦三の〈陸奥乃木芥子〉内扉には、川越謙作のこけしを図案した板祐生の孔版画が刷り込まれている。

〈陸奥乃木芥子〉の内扉

〈陸奥乃木芥子〉の内扉

戦後の作品は別人の観があり、戦前ほどの面白さはみられない。なお、〈こけしガイド〉初版は謙作の弟子謙二郎として戦後の作品を紹介しているが、作風が変化したことと、当時兄謙次郎方のロクロでこけしを挽いていたことになどにより作者名には混乱があったと思われる。
下掲は謙作が亡くなる昭和34年の作であるが、弟弟子の室越良平の木地に描彩したものであろう。


〔18.3cm(昭和34年)(高井佐寿)〕

系統〕 津軽系一般型

〔参考〕

 

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