佐久間弥(さくまわたる:1907~1995)
系統:土湯系
師匠:佐藤嘉吉
弟子:佐久間嘉光
〔人物〕 明治40年8月25日、佐久間沢次郎、シモの次男として、土湯村字杉ノ下六三に生まれた。佐久間勝は長兄である。小学生時代には斎藤太治郎が小学校の教員をしていて、3年生まで弥は太治郎の授業を受けていたという。大正9年、14 歳のとき野地温泉の叔父佐藤嘉吉に3ヵ月ほど木地の手ほどきを受けた。嘉吉は膽澤為次郎に足踏みを習った人、嘉吉のことを弥は、「非常に優しい人だが、仕事の上では几帳面で、自分の注文通りのこけしを挽かぬとチョウナで割ってしまった」と語っていた。師匠の佐藤嘉吉三女ミサホと結婚した。
昭和15年9月、木地挽き復活、それまでの電力関係の仕事の合間にこけしを作った。昭和16年ころを最盛期として同21年ころより休業。昭和33年再復活。土湯温泉で土産物店を経営のかたわらこけしを挽いた。このころ四男嘉光に木地を教えた。
昭和38年10月、旅館松雲間を新築し経営。昭和39年には木地を廃業した。そのロクロを義兄佐藤兵七の長男一男に与え、兵七の家に据えつけたが、それがきっかけとなって兵七がこのロクロでこけしを挽くようになったという。
平成7年12月11日没、行年89歳。
なお、佐久間貞義旧蔵の渡邊作蔵5本が佐久間弥の家の物置から発見された話は有名である。
〔作品〕 初出文献は昭和15年10月の〈東京こけし・11〉の秀島孜の記事であるが、写真紹介は、昭和29年〈こけし・人・風土〉が初出文献である。戦前作では昭和15作によいものがあり、同16年ころより華麗なものを多く作った。前記秀島孜の記事によれば、西山徳二を指導したという。
〔13.0cm(昭和15年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション
戦後再復活の昭和33年作は〈こけしガイド〉に掲載されている。この頃の作は小学校の恩師であった晩年の太治郎の影響か、目尻を下げて微笑する表情となった。
昭和40年代後半に佐藤佐志馬の家で作ったこけしが少数ある。
〔系統〕 土湯系
〔参考〕