河村辰治

河村辰治(かわむらたつじ:1880~1934)

系統:鳴子系

師匠:國松美登里・高橋直蔵・高橋利四郎・内田久吉

弟子:河村清太郎・河村音次郎・北原鉄造

〔人物〕明治13年9月1日、秋田県由利郡本荘の佐藤與吉・タケの四男に生まる。8歳年長の姉キクの夫である國松美登里より木地を習得した。佐藤家も國松家も本荘二万五千石に仕える士分の家であったが、維新後の失業時代であったため手に職を付ける必要があった。これが木地を始める動機であった。辰治は師匠の勧めで鳴子高橋直蔵の弟子となった。直蔵は美登里の師高橋弥太郎の師匠でもある。辰治が鳴子に行ったのは明治30年ころで、直蔵はすでに65歳になっていたので、実際には兄弟子の高橋利四郎に多くを学んだという。当時鳴子には内田久吉がきて一人挽きを指導し、鬼首寒場(ぬるゆ)に移って大車で横木を挽いていたので辰治は久吉について横木挽きの習得も行った。鬼首峠をこえて秋田に帰った佐藤辰治は明治32年20歳のとき本荘裏尾崎町の河村清の養子となり、木地業を開業した。明治35年村岡勝蔵二女リマと結婚、4男4女をもうけた。長男清太郎、二男音次郎はこけしの作者として知られる。製品はこけしに限らず、お盆、独楽、茶碗、蝋燭立、玩具、さらに水道の木管や椅子の足まで手掛けたという。井桁模様のこけしを多く作ったといわれているが、作品未確認である。大正9年には同町の北原鉄造が弟子入りし、木地を学んでいる。昭和9年11月18日没、享年55歳。

〔作品〕明確に辰治作と確認されるこけしは残っていないが、下掲の4寸は極めて古風であり、胴の紅葉の崩しも奔放で清太郎とは差があるので、辰治作ではないかとされる。〈こけし手帖・355〉で川上克剛は辰治作の可能性について述べている。

河村清太郎 〔12.2cm(昭和10年頃)(岡戸正憲蔵)〕
河村辰治か? 〔12.2cm(正末昭初か)(岡戸正憲蔵)〕紅葉の崩し方など極めて古風

清太郎、鉄造のこけしを見る限り、ほとんどが鳴子の「たちこ」の形態であるから、辰治のこけしも同様の形態であったろう。
同じ高橋利四郎に木地を学んだ小安の伊藤儀一郎も同様の「たちこ」形態のこけしを作った事を考えると、この形態は利四郎由来のものかもしれない。

〔伝統〕鳴子系外鳴子

〔参考〕

  • 川上克剛:本荘・河村一家のこけし(つづき):〈こけし手帖・355〉(平成2年10月)
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