河村清太郎(かわむらせいたろう:1902~1970)
系統:鳴子系
師匠:河村辰治
弟子:河村守
〔人物〕 明治35年9月13日、河村辰治、リマの長男として、秋田県本荘町裏尾崎町39に生まる。弟に音次郎がいる。大正6年、16歳のとき、家業を継ぎ父辰治について木地挽きを習得。こけしはその頃より大正末7、8年頃まで盛んに作ったが、欧州大戦後の好景気で都会の玩具が多く流入されるようになると殆ど作らなくなった。大正14年12月、24歳で結婚。昭和9年、父辰治没後、「河村木工所」を継承して、水道用の木管、洋家具、茶盆、玩具類を製作した。昭和11年、稲垣武雄が偶然清太郎こけしを発見。昭和13年4月刊の〈こけし展望・二〉に「本荘こけし」として初めて文献に紹介された。昭和12年8月出征。出征中弟弟子にあたる職人の北原鉄造が工場を守り、木地を挽きこけしも製作した。昭和14年12月に帰還し木地業に復帰した。
昭和38年、脳出血のため倒れ休業。昭和45年10月28日、心不全のため没した。行年69歳。三男守が河村本工所を継いだ。
河村一家 左端が療養中の清太郎、右端河村守
昭和40年3月大石真人撮影 〈こけし手帖・59〉より
〔作品〕 大正期の清太郎のこけしは、父辰治のこけしと共に未確認。昭和11年に見いだされて作った復活初作は、筆致無造作で古風な味わいのある作だった。稲垣武雄が河村を見出した経緯やその後の製作の様子は、〈民俗文化・14〉の小林玻離三稿に詳しい。
「昭和十年頃、本荘出身の看護婦が東京の医師(稲垣武雄のこと)の下にゐてその先生がこけしを集めてゐたのを見て本荘にもこけしを作る人があると話をした處、それではと云ふ譯で、看護婦から註文の手紙を貰ったと云ふ。その時は五六本ばかり作って送ったが、古い昔の記憶を思ひ起して、彩色なども施したのであった。
その翌年である。仙臺にあった天江富弥氏であらう。秋田湯澤の木地屋で聞いて来たと突然尋ねて来られて、こけしの 話を聞かれ、註文があり、宣傳してあげるからと云ふことであった。 それからぼつぼつとこけしの註文があって、昭和十二年の初夏の東京三越の東北特産展には三十本程のこけしを作り、追加追加で百本ばかり出しだのが、やや大量の製作の始まりで、その十二年の夏応召を受け清太郎氏は大陸へ渡る處となった。
そんな譯で昭和十二年迄には二三百本位しか作らなかった由。それが昭和十四年の暮に召集解除になったことが知れると、どっと註文があって、昭和十五年には千本ばかり各地へ送ったと云ふ。
木は土地の言葉でアカンチヤンと称れる白い木地が使はれてゐる。」〈民俗文化・14〉
初出の文献〈こけし展望・二〉には写真掲載なく、昭和14年刊の〈こけしと作者〉で初めて写真紹介された。〈こけしと作者〉〈美と系譜〉所載は昭和12年ころの作で、復活初期の作品。面描の筆致太く、表情古雅でこのころの作品には優作が多い。その要約された美しさを〈こけしの微笑〉では、「こけしの初期を思わしめる」と賞賛している。また簡素なフォルムは鳴子の「たちこ」との類似がみられ、鳴子こけしの源流へと想像を膨らませることが出来るので興味深い。本荘こけしの胴模様は、井げた、楓、絣、菊、なでしこ、菖蒲の6種類で、特に井げた模様は本荘こけしの専売に近い。〈こけしの追求〉によれば、この模様は父の辰治が高亀にいたとき(明治30年ころ)すでに井げた模様の三、四寸のこけしを作って店へ出していたという。辰治の師系列の工人國松美登里、高橋弥太郎、高橋直蔵の誰からの伝承であろうか。
昭和15年吾八の〈これくしょん〉で誌上頒布された。〈古計志加々美〉掲載は昭和15年作。この作風が規準タイプになり、その後昭和30年ころまで続く。このため清太郎こけしは年代変化の少ないこけしといわれている。昭和30年ころまでの作品には15、6年作と見分けのつかぬほどの佳作が多い。戦前作は胴の底に小判形のゴム印で「本荘こけし秋田県本荘町河村清太郎作」と捺印してあるものが多い。その後は、〈こけしガイド〉掲載の昭和33年作にみられるように、描彩・フォルムとも急速におとろえ、味の薄いこけしになってしまった。昭和38年休業。その後はこけしを作っていない。
〔右より 19.8cm 菖蒲(昭和12年)(北村育夫)、19.8cm米浪庄弌旧蔵 紅葉、19.8cm橘文策旧蔵 絣(昭和12年)(鈴木康郎)〕
〔11.8cm、24cm(昭和12年)(深沢コレクション〕
昭和12年東京三越の東北特産展のころのもの
〔右より 35.5cm 鈴木鼓堂旧蔵、30.7cm 鹿間時夫旧蔵(昭和15年)(鈴木康郎)〕
吾八〈これくしょん〉誌上頒布の頃のもの
〔系統〕 鳴子系外鳴子。父辰治の義兄であり、その木地の師匠でもある國松美登里は鳴子の高橋弥太郎(直蔵系列)について木地を学んだ人。こけしは鳴子からの伝承であるが形態は大部分が「たちこ」の形を取っている。大寸にも「たちこ」の形態を踏襲したのは、小安の伊藤儀一郎も同じである。清太郎の三男守が伝統を継承した。今は守の弟子菅原修が清太郎の様式を伝えている。