野矢俊文(のやとしぶみ:1946~)
系統:土湯系
師匠:瀬谷重治
弟子:野矢里志
〔人物〕 昭和21年9月26日、野矢千里、シズの長男として猪苗代町川桁に生まれた。妹がおり二人兄妹である。野矢家は元々、蒲生氏郷の流れを汲む近江(現在の滋賀県)出身で会津での家系は江戸時代中後期の甚吉の時代まで遡る。祖父の勇と母のシズは川桁郵便局勤務、父の千里は国鉄川桁駅勤務、千里の兄の貫一は磯谷茂の経営する山市屋に下宿して中ノ沢分教場の教師をしていた。貫一の教え子に戸内芳蔵(岩本芳蔵は戸内家に養子に入っているので戸籍上の表記)の長女照子がいた。
大正6年生まれのこけし工人渡辺長一郎、同6年生まれの貫一、同12年生まれの千里(令和2年4月2日満96歳で逝去)は野口英世の学費を援助していた恩師小林栄が創設した私塾の猪苗代日新館にほぼ同時期に学んでいた。
俊文は、川桁と中ノ沢に深い地縁を持って育った。昭和29年に岡本敦郎が大ヒットさせた「高原列車は行く」は福島市出身の古関裕而が作曲、小野町出身の丘灯至夫が作詞を行い、川桁駅から沼尻駅間(中の沢温泉)の15.6㎞を結んだ沼尻軽便鉄道をモデルとしている。当時、川桁駅は国鉄・磐越西線と沼尻軽便鉄道の二つの駅が同一敷地内に並んでいた。交通の要所であり旅館、飲食店、映画館があり賑やかな町であった。
俊文は学校を卒業後、地元企業に就職した。昭和49年1月6日に瀬谷重治に弟子として入門した。師匠の飾らない人間性と轆轤に愚直に向かう姿勢に感動したのが動機である。瀬谷幸治は兄弟子である。昭和51年3月、土屋志津枝と結婚、52年1月に長男が誕生した。53年3月に次男の里志が誕生、里志は後にこけし工人となった。
修業を始めてから4年半後の昭和53年8月に小寸こけしを作る事を許された。昭和54年に瀬谷こけし工房は田茂沢地区に新築移転し、俊文の専用轆轤も据えられて、3人で稼働させた。その後、重治が郡山の弟子時代に使用していた轆轤とダライ盤を譲り受けて川桁の自宅に設置し、自宅でもこけし作りに励めるようになった。昭和54年3月に8寸のこけしを初めて販売することができた。昭和54年5月、6月、7月、11月に1寸から3寸を名古屋こけし会と伊勢こけし会で頒布した。昭和54年7月には郡山こけし会で8寸15本が頒布された。8月に蒐集家の大浦泰英に6寸アヤメ5本、8寸サクラ5本送付、昭和55年4月に全日本こけしコンクールに4寸ロクロ線5本、6寸アヤメ5本を即売用に出品した。
現役時代の野矢俊文(自宅の工房) 昭和54年7月27日 撮影:瀬谷幸治
その後は頼まれて旧作を出品した事はあったが、新作は発表していない。修業期間は長いが、デビュー後は2年弱しか活動しておらず、現存するこけしは極めて少ない。小寸物が製作の殆どであったので6寸以上の作品は数える程である。小寸物ではロクロ模様とアヤメ模様を、6寸以上では桜模様を好んで描いた。
平成10年8月、9月に意匠を凝らした「こけし絵」を発表している。後にこのこけし絵は里志の本人型こけしの基となっている。
平成6年3月に「こけしと語ろう会」設立後は会員となり会報「木地っ子」6号(平成10年11月8日発行)より岩本善吉と戦前の中ノ沢こけしの事や芳蔵、瀬谷重治の事等を取り上げ書いている。平成12年に「懐かしの沼尻軽便鉄道」、13年に「続・懐かしの沼尻軽便鉄道」(「懐かしの沼尻軽便鉄道」刊行委員会発行)という沿線の記録本が発行されたが、その殆どが俊文の執筆である。平成20年代には名古屋こけし会「木でこ」にも中ノ沢の研究について投稿している。平成25年10月から次男の里志に木地挽きの指導を行い、里志は平成28年10月にこけし工人としてデビューした。
俊文は鉋からペンに持ち物を変えてこけしに関わった異色の工人である。
里志の修業中に幾人もの蒐集家が俊文に復活を懇願するも上手にかわしていた難物工人でもある。
〔作品〕昭和53年と54年の作例を下に示すが、こけしの製作期間は短く、めだった年代変化を議論できる製作歴ではない。ただ、たこ坊主も作品として、一定水準の完成度に達したこけしであった。
〔右より 3.0cm、4.5cm(昭和54年6月)、4.5cm(昭和54年5月)、24.2cm(昭和54年作を平成29年に頭と胴差し込み完成させた)、9.1cm(昭和53年11月)、9.1cm(昭和53年12月)(中根巌)〕
〔系統〕土湯系中ノ沢亜系
岩本善吉のタコ坊主の型を継承している。
〔参考〕