工藤忠二

工藤忠二(くどうちゅうじ:1922~2011)

系統:鳴子系

師匠:岡崎斉吉

弟子:

〔人物〕大正11年6月19日、工藤多吉の次男に生まれる。昭和12年16歳の時、鳴子の岡崎斉吉の工場に入って木地を学んだ。当時この工場には本間留五郎や後藤希三がおり、また兄弟子として鎌田次男、佐藤清、大場正男などがいた。斉吉が応召になると、工藤忠二と佐藤初三郎という若手だけが残ったので、伊藤松三郎や岡崎斉が後見として時々来て面倒を見てくれた。
この頃こけしはほとんど作らず、軍需品の電燈の台や信管筒などが主な製品だった。戦前は、昭和15年頃伊藤松三郎のところに来た蒐集家に頼まれて、一本こけしを作ったことがあったくらいだという。
戦後はしばらく木地から離れたが、やがて新型が隆盛になり、昭和30年代には職人7~10人くらいの工場で木地を挽いた。伝統こけしは昭和37年頃から再び盛んになったので、その頃から忠二も描彩にも取り組むようになった。昭和47年春頃から上鳴子に工房を整えてこけし製作を続けた。
平成23年1月13日没、行年90歳。 

工藤忠二 平成7年

〔作品〕戦前のこけしは確認されていない。戦後の岡崎斉吉工場は、需要にあわせた生産で、様式の厳密な継承に力を注いでいたわけではないので、職人は鳴子の一般的な共通型を効率的に作っていた。
戦後本格的に活動を始めた忠二のこけしは、基本的に鳴子共通型であったが甘さに流れず、一定の品格を維持した作品であった。


〔15.1cm(平成元年)(橋本正明)〕


〔21.0cm(平成6年)(ひやね)〕

 〔伝統〕鳴子系共通型

〔参考〕

  • 工藤忠二:師匠・岡崎斉吉さんのこと〈こけし手帖・261〉(昭和57年12月)
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