小林英一(こばやしえいいち:1917~1947)
系統:肘折系
師匠:佐藤丑蔵
弟子:
〔人物〕 大正6年10月1日、岩手県和賀郡湯田小林辻右衛門、ちよのの次男に生まる。父辻右衛門は旅館幸助館(後のつるや)の出で、大正10年に木地伝習所を開設、その後小林木工所として営業した。そこに佐藤丑蔵が講師、職人として働いていた関係から英一は見取りで木地を覚えた。昭和6年3月高等小学校を卒業後、上京し菊屋橋の巡査を二年間勤めた。昭和8年湯田に帰りホテルの簿記係・郵便局の事務員を勤めるかたわら、こけし・尻がい玉といった簡単なものを挽いた。昭和13年22歳で自動車学校に入り、免許を得ると盛岡に出て佐藤バス会社の運転手を二年、その後花巻へ移り巡査を勤め、昭和16年に湯田へ帰った。湯田では赤石鉱山に運転手として勤めていたが、こけしも時々作った。昭和18年ごろから病身となり、昭和22年10月18日心臓弁膜症のため没した。行年31歳。
生来身体が弱く、そのため何回か仕事を変えた。手先が器用で、絵を描くこと、魚釣りなどは特に上手であったという。橘文策の〈木形子・第8号〉により作品が写真で紹介されたのが初出である。
〔作品〕製作は昭和8年頃からであるが、下掲のこけしは作り始めの時期のもの、米浪庄弌の〈こけし人形図集〉に掲載され、〈こけし鑑賞〉では素朴群として取り上げられたもの。
鹿間時夫はこの右端を「一筆目はユーモラス素朴可憐で滋味掬すべき佳品である。前髪小さく笑っているところなど幼童の面影をいかんなく発揮している。」と評した。
〔14.8cm、14.8cm(昭和8年頃)(荻野哲夫)〕米浪庄弌旧蔵
下掲写真は、胴底に文吉と署名があるが描彩は英一、木地は佐藤文吉が挽いたものと思われる。文吉が湯田に来たのは昭和12年から13年までであるからその時期に英一が描いたと思われる。
昭和13年に他出し、昭和16年に湯田に戻ってこけし製作を再開したが、下掲は再開後のもの。初期の素朴なものからは大きく変わったが、独特の雰囲気を漂わせた作品で魅力がある。
〔右より 25.7cm(昭和16~18年頃)(河野武寛)、19.0cm、19.5cm 岩下祥児旧蔵(昭和16~18年頃)((鈴木康郎)〕
若くして他界したため英一の残る作品数は多くない。
〔伝統〕肘折系文六系列 英一型は小林英子、小林善作、小林定雄、佐藤英裕等により復元継承された。
〔参考〕