斎藤幸兵衛

斎藤幸兵衛(さいとうこうべえ:1890~1943)

系統:津軽系

師匠:斎藤幸太郎

弟子:

〔人物〕明治23年8月14日、青森県津軽郡山形村温湯の木地業斎藤幸太郎、よねの長男に生まれた。戸籍名は峯太郎。父幸太郎には七人の弟、姉と三人の妹がおり、峯太郎(幸兵衛)にもみよ、峯三郎、峯作の弟妹がある。斎藤家は温湯の旧家八軒(斎藤幸兵衛、盛秀太郎、毛利専蔵、山谷権三郎、佐藤伊太郎、毛利健次郎、盛憲三郎、佐藤福太郎)の一つにあたり、代々幸兵衛を号したが、二代目幸兵衛(嘉永元年6月15日生ー大正10年9月14日没)とその子幸太郎(明治4年5月22日生ー大正9年3月25日没)は蓄財家であったとされる。この時期、斎藤家はまた旅館経営も行っていた。
明治27年に京都で開催された第4回内国勧業博覧会には、斎藤幸兵衛の名で玩具類の区分に木地玩具宝槌、木地製品の区分に挽物杓子、挽物杯が出品されたことが記録されている。おそらく祖父の幸兵衛あるいは父幸太郎の家名による出品であろう・

第3回内国勧業博覧会 玩具類の区分

第3回内国勧業博覧会 (木地製品の区分)

父幸太郎は幸兵衛を名乗らなかったようだが、明治22年に山形村二庄内の千葉文之助四女よねを嫁に迎え、峯太郎、みよ、峯三郎、峯吉をもうけたが、みよ、峯吉は幼時に亡くなった。また妻のよねも明治32年に病没した。幸太郎は後妻とめを迎えたが、とめとの間に子供はいない。長男峯太郎の幸兵衛が三代目とされる。


斎藤家が経営していた旅館(明治年間)

三代目幸兵衛は農学校卒業後、父について木地を修業し、杓子を作るのを本職とした。うす、きね、ジョウバ槌、ずぐり、えじこ等の玩具も副業として挽いた。


右 幸兵衛  左 峯三郎  明治後期


向かって右から5番目・幸太郎(父)6番目・幸兵衛 9番目・峯三郎(弟)大正2年頃

子宝には恵まれ、先妻マルとの間に峯一郎(明治44年4月8日生ー昭和41年5月5日没)、後妻ふさとの間につま、ツナ、房次郎、ツセ、峯次郎、峯廣、ツエ、ちる、ツヤ、ツキの合わせて三男七女をもうけた。
幸兵衛は恵まれた家庭環境にいたが、やがて米相場に手を出して失敗を繰り返すようになり、銀行の尾上支店での借金がかさむようになった。結局はその抵当としていた田地田畑家屋敷等を差し押さえられ、没収されることとなった。
三女の唐牛ツセ(大正9年6月18日生ー平成24年12月21日没)の述懐によると「私が小学校6年生の時に家は破産しましたが、高等科2年まで入れてもらいました。兄姉は外へ出て私が年長でした。林檎の倉庫を改造して父はこけしを作り生活のため一生懸命でした。そのこけしはりんごの大きいかごに入れて私が毛利茂太郎様宅に運びました。どこに送っていたのか私には分かりません。誰かの話によると大阪の方と聞いています。父の作っている時は温湯でこけしをもって遊んでいる子供たちはおりません。今になって販売先を聞いていればよかったと思います。2、3本持っていたらと残念です。姉の話によれば盛秀太郎さんは父のこけしの色をどうしても出せない。父のこけしを1本でも持っていないかとよく聞かれたそうです。私が覚えているのは鳴子こけしのような首の動いていたのもありましたので鳴子こけしによく似ていたなと思いました。父に或る日不思議で聞いたら始め頭の方を作っておいて後に胴の方を作り、熱いうちに胴に首を入れさめると締まるからと教えてもらった記憶があります。」
幸兵衛は、昭和7年の春に妻子をつれて大鰐の佐々木金次郎の家に身をよせて一年間職人として働いた。
昭和8年の秋に弘前市東町に転居、飲食店を開いたがうまくいかなかった。やがて借金のため高利貸しに畳まで差し押さえられ、やむなく昭和11年春に福井市に移転した。福井では福井紡績、興亜紡績等に勤務した。


昭和17年1月1日 興亜紡績 炊事部一同 めぐりあい劇記念撮影
向かって前列右端が斎藤幸兵衛

最後は福井市の花堂町にあった酒井繊維工業㈱の女工募集係をしていたという。
昭和18年8月28日、弘前へ出張中に弘前市新品川町の親戚小島方で心臓麻庫のため急死した。行年54歳であった。温湯の叔父斎藤幸作(父幸太郎の次弟)の家で葬儀を出した。戒名は新皈元峰雲院宝林仁芳居士。性温和で甘党、博打などは嫌いな方であったという。
蒐集家の西田峯吉は幸兵衛の死を知らず、福井市の幸兵衛宅を訪ねてその死を知った。その折の未亡人となったふさの言によると生前の幸兵衛は、「従弟の住んでいる鰺ヶ沢温泉へ行ってもう一度こけしを挽いてみたい」と語っていたそうである。

斎藤幸兵衛
斎藤幸兵衛


斎藤幸兵衛


斎藤幸兵衛50周忌の写真 平成5年8月
後列右より 三女・唐牛ツセ、七女・成田ツキ、六女・鳴海ツヤ、二女・蛯名ツセ
前列右より 四女・石井ツエ、三男・斎藤竹司

〔作品〕こけしは盛秀太郎の製作と同じころで、互いに影響し合って作ったとされる。土橋慶三は大正3年以降の現象だろうとしている〈こけし手帖・41〉。斎藤幸兵衛と盛秀太郎によって今日の津軽系こけしの元型が確立した。
幸兵衛の作品で残るものは比較的に少ない。昭和7、8年橘文策頒布による10数本と昭和9年4月に弘前の木村弦三頒布による20数本があるだけであり、現存するものは限られている。おかっぱ長おぼこで直胴のものと、胴の中ほどが凹むものとがあり、おそらく盛秀太郎型の影響であろう。
面描は草書体でさらりと描き、特有の品格と情味おり、瞳は三白眼になる傾向がある。盛秀太郎の唐草紋様に対し、幸兵衛では牡丹が特長であった。
橘文策頒布は昭和8、9年であるから佐々木金次郎方で作ったものかもしれない。木村弦三頒布は、すでに幸兵衛の弘前時代であるから、おそらく伊太郎方のロクロを借りて引いたもの、あるいは伊太郎木地に描彩したものと思われる。
なお鹿間時夫は〈こけし手帖・87〉で「伊太郎名儀の作も実は幸兵衛の面描ではないか」という可能性についても言及している。伊太郎宅で作られたものは皆伊太郎名義で蒐集家の手に渡っていたのかもしれない。


〔24.3cm(昭和7年頃)(西田記念館)〕西田峯吉コレクション


〔26..2cm(昭和7年頃)(田村弘一)〕

〔 24.2cm(昭和7年)(深沢コレクション)〕
〔 24.2cm(昭和7年)(深沢コレクション)〕


幸兵衛のえじこ 高さ7.5㎝ (中根巌)

系統〕津軽系温湯亜系
幸兵衛型は佐藤善二が継承したが、その後津軽におけるスタンダードとなり、善二の弟子はじめ多くの工人が継承するようになっている。幸兵衛型を継承した主な工人としては、佐藤善二、佐藤佳樹、小島俊幸本間直子笹森淳一阿保六知秀阿保正文 などがいる。
また幸兵衛二男の竹司が、津軽こけし館館長らの勧めで描彩のみ行ったものが残っている。

〔参考〕

  • 土橋慶三:津軽の斉藤幸兵衛〈こけし手帖・41〉(昭和37年5月)
  • 鹿間時夫:幸兵衛と伊太郎〈こけし手帖・87〉(昭和43年6月)
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