斎藤徳寿

斎藤徳寿(さいとうとくじゅ:1926~2021)

系統:土湯系

師匠:山本千里/岩本芳蔵

弟子:斎藤良寿

〔人物〕 大正15年1月25日、福島県耶麻郡西会津町登世島の商人宿・雑貨店経営斎藤茂、ふじ江の次男に生まれる。昭和13年に耶麻郡尾野本小学校高等科を卒業した。昭和16年に茨城県龍ヶ崎市の羽田精機に入り、軍需作業に従事した。1年後に身体を壊して帰郷した。
昭和23年に小康を得て独学により服飾デザイナーとして働くが、昭和27年に病が再発して入院し、二度の手術を含む闘病生活を送った。この間、病院から会津若松の県立工業試験所に通って、デザインの勉強を行なった。ここでは安藤良弘がデザイン課の課長を務めていた。昭和30年に退院し、お土産のこけしの製作などを始めた。
昭和31年、会津若松の井上義治(井上ゆき子の父)にすすめられ、会津若松に仕事の場を移した。この年の10月に福島県みやげ品コンクールで奨励賞を受けた。このときの作品名をとり「ロマンこけし斎藤工房」という屋号を名乗ることにした。昭和35年に山本ミツイと結婚。
昭和41年、鈴木千里に師事して木地の修業を始めた。昭和43年5月に中ノ沢の岩本芳蔵に弟子入りした。この弟子入りは県の工業試験場デザイン課の日本画家長谷川恵一の勧めがあり、紹介状も書いてくれた事が契機となったという。
芳蔵について蛸坊主のこけしの指導を受け、以後そのこけし作りを続けた。昭和54年には福島県観光みやげ品コンクールで優秀賞を受賞した。 徳寿の長男良寿もこのころよりこけしを作るようになった。
徳寿はこけし製作においても、蛸坊主のグループの中で重要な位置を占めるが、岩本善吉についても詳しく追求しており、芳蔵からの聞き書き、既往の文献に加え、地域の関係者からの聞き取り検証なども行なっている。善吉自身が語った経歴や逸話についてはかなりのフィクションがあることを指摘している〈伊勢こけし会だより・106〉(平成14年11月)。
令和3年9月没、行年数え年96歳。

斎藤徳寿

斎藤徳寿

斎藤徳寿

〔作品〕下掲は初期の作、岩本芳蔵の善吉型を継承した。


〔右より 24.2cm(昭和45年)、24.2cm(昭和48年)(山本吉美)〕


〔30.3cm(昭和60年)(山本吉美)〕


〔30.9cm(平成9年)(高井佐寿)〕

岩本善吉の型にも順次取り組み、各コレクターの古品を研究した作品も作った。下掲は平成14年大阪こけし教室の中根巌が各種善吉の復元を依頼し、それに応えて同年7月に郵送されてきたもの。


〔右より 24.2cm、24.2cm、21.2cm(平成14年)(中根巌)〕
それぞれ西田コレクション、名和コレクション、天江コレクションの復元

〔伝統〕土湯系中ノ沢亜系

〔参考〕

  • 斎藤徳寿:斎藤徳寿工人からの手紙〈伊勢こけし会だより・106〉(平成14年11月)
  • 中根巌:斎藤徳寿工人のこと〈伊勢こけし会だより・106〉(平成14年11月)
  • 高井佐寿:〈木でこ・158〉(平成8年7月)
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