本多信夫

本多信夫(ほんだのぶお:1918~1995)

系統:土湯系

師匠:岩本芳蔵

弟子:本多洋

〔人物〕  大正7年7月22日、福島県耶麻郡中ノ沢(猪苗代町大字蚕養字沼尻山甲2855)の本多留五郎・サキの長男に生まれる。実家は雑貨商泉屋物産店を営んでいた。昭和9年福島県立付属高等科を卒業後、信夫は喜多方市内で菓子の製造を学んだが、昭和13年に帰郷し、自宅にて菓子製造と土産物屋泉屋で仕事をするようになった。
帰郷後間もなく岩本芳蔵に弟子入りして木地の技術を学んだ。岩本芳蔵の弟力と同年で友人であり、子供の頃から芳蔵宅でよく遊び、その仕事を見ていた縁による。また芳蔵の製品は、信夫の土産店でも販売した。 このころ玩具やこけしは皆分業でやったので、岩蔵作には信夫の手の加わったものがある。
昭和17年に代用教員となったが、同年4月に召集され、中支派遣軍第13師団第4野戦病院衛生兵として中支に渡った。応召の前には留守中の商品にと自挽きのこけしを50本ほど作り残していったという。
昭和21年に帰還した。帰還後は岩本芳蔵と共に山に行き、こけしや玩具の用材を集めて搬出した。昭和25年から30年ころは新型のこけしがよく売れたので、胡粉を塗ったこけしやえじこなども作った。昭和24年に小石沢洋か岩本芳蔵に弟子入りして木地を学んだが、昭和28年2月に本多信夫の養子となった。洋の母ヒデヲが信夫の実姉であった関係による。洋は昭和28年に修業を終えての信夫の工場で木地を挽くようになった。
昭和32年から信夫は猪苗代町の教育委員、教育委員長を歴任し、昭和47年まで務めて、県の教育功労賞を授与された。この間昭和41年に菓子の製造を休止している。昭和38年から他出していた洋が、昭和45年に戻ったので洋と共にこけしの製作を復活した。趣味はカメラで昭和22年当時キャノンのカメラを二台持っていたという。中ノ沢の各種行事ではカメラマンを務めたという。
平成7年7月29日没、行年78歳。


左より 三瓶春男、本多信夫、瀬谷重治


木地を挽く本多信夫

〔作品〕 下掲は〈こけし・人・風土〉第138図に本多信夫として掲載されたもの。岩本芳蔵の木地に安藤良弘が描彩したものと思われる。原型はこうした安藤良弘の図案に基づくこけしであったろう。


〔30.5cm(昭和14年7月)(鹿間時夫旧蔵)〕

〈こけし辞典〉には、「芳蔵型をデフォルメさせたような牡丹花の胴と横長の丸い頭に一重瞼の可愛い表情のを描く。」と書いてある。

戦後には牡丹花の筆法に近い柔軟な表情になった。この時期は本多信夫の本人型と言っても良いだろう。


〔 15.4cm(昭和21年頃)(橋本正明)〕


〔右より 30.3cm(昭和38年)、21.2cm(昭和46年)(山本吉美)〕


〔右より 24.2cm、36.4cm(昭和48年)(山本吉美)〕


〔 30.3cm (昭和48年頃)(高井佐寿)〕

〔伝統〕 土湯系中ノ沢亜系

〔参考〕

 

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