佐久間勝(さくまかつ:1905~1982)
系統:土湯系
師匠:佐藤嘉吉
弟子:
〔人物〕 明治38年3月20日、佐久間沢次郎・シモの長男として、土湯村字杉ノ下六三に生まる。大正9年ころ、野地温泉の叔父嘉吉に入門。短期間木地の指導を受けた。相弟子に佐藤佐志馬、勝の弟の佐久間弥がいた。昭和のはじめには土湯温泉向滝旅館の若主人として働き。木地業からは離れた。
〈木形子談叢〉によると、 昭和6年橘文策の土湯訪問記事中に「向滝旅館の若主人がもと木地を挽いていた」とあり、続いて「向滝で番頭に用件を伝えているところへ、27、8歳の若者が入ってきた。これが若主人だったので、土湯訪問の目的を話すと、それではこれから案内しましょうというので、女中に荷物を預けて出かける。」とある(〈こけしざんまい〉に再掲)。佐久間勝の案内で橘文策は土湯工人を訪れたのであった。
その後、向滝旅館の主人となって、旅館経営に専念した。
昭和57年7月17日没 行年78歳。
〔作品〕 大正期に嘉吉のもとで修業していた時代のこけしは残っていない。橘文策が訪れたときにはもう若主人として旅館業を手伝っていたから、戦前のこけしはほとんど残っていないであろう。
昭和20年代に3本ほど作ったことはあったようである。土湯スキー場の建設に協力した自衛隊の幹部の人が向滝の若主人だった佐久間勝と会食した時、勝のこけしもぜひ欲しいと言われたので、佐藤佐志馬のロクロを借りて3本作った。1本はその人に、1本は福島の佐久間貞義のもとに、もう1本は勝が自分の手元に残したという。確かに佐久間貞義蔵品中に昭和25年9月作というこけしがあった。胴の中央にジグザグの折れ線模様を入れていた。また 昭和40年代に、こけし7寸数本を製作したという。それは佐久間弥と共通する型のこけしであった。
〔系統〕 土湯系
〔参考〕
- 中澤鑅太郎:〈ききがきちょう〉(昭和45年11月)