佐藤嘉吉

佐藤嘉吉(さとうかきち:1865~1929)

系統:土湯系

師匠:膽沢為次郎

弟子:佐藤佐志馬/佐久間勝/佐久間弥/岩本善吉/長島寅衛/佐藤嘉平

慶応元年11月28日、福島県信夫郡土湯の米穀商加藤屋佐藤兵吉、ナミの次男に生まれる。佐藤俊昭の祖父茂作は長兄。佐藤兵吉は岩城屋旅館佐久間弥治右衛門三男で、加藤屋佐藤松五郎長女ナミと結婚して養子となった。
明治18年、膽澤為次郎が土湯にやって来て一人挽きの伝授を行ったときには、加藤屋が技術指導の教場となった。加藤屋の二階に足踏みロクロが据えられ、作業場になったという。膽澤為次郎は井枡屋に宿を取り、加藤屋に通って技術を伝えた。
嘉吉はそれまでは土湯で開懇に従事していたが、自家で教える膽澤為次郎について21歳で木地を修業した。翌19年野地温泉の相模藤吉、ツルの長女スイと結婚、一時相模家の養子となったが、明治23年に佐藤姓に戻り、加藤屋旅館を野地に開業、夏期は旅館の仕事をして、冬期は土湯に帰り木地を挽いた。
父兵吉も明治28年65歳で野地の開発に尽くすようになった。嘉吉とスイの間にはナミ、忠太郎、兵七、佐志馬、トミ子、ミサホの子供がある。加藤屋旅館は長男忠太郎がついだ。
嘉吉は主に必需品を中心とした木地製品を挽いて、明治41年の第6回奥羽六県聯合共進会(福島市で開催)では出品した煙草入れが第4位に入賞した。


第6回奥羽六県聯合物産共進会  出品目録
左端に佐藤嘉吉(煙草入)出品が記されている


嘉吉四等賞褒状 土湯 佐藤一弘蔵

こけし等の赤物はあまり挽かなかったという。しかし、佐志馬や弟子の佐久間弥などは、その弟子時代には嘉吉もこけしも挽き、ロクロ返しの元祖でさえあったと語っていた。おそらく、生活用品の木地が中心であったろうが、こけしも作ったと思われる。こけしとして唯一残っているのは、佐藤兵七、佐志馬の家の仏壇に凛棒(りんぼう:カネ棒、鐘を鳴らすための棒、撞木)として用いられていた4寸弱の小寸である〈教室だより・14〉。福島こけし愛好会の永盛肇会長が赤外線撮影で描彩を判断し、それをもとに昭和52年に渡辺鉄男が復元したことがある。小頭に不思議な微笑、胴には赤と墨のロクロ線を配した棒状のこけしである。
令和に入ってから、近野明裕もその復元を試みている。


〔11.4cm(令和2年6月)(橋本正明)〕近野明裕による嘉吉のカネ棒復元

橘文策の〈木形子談叢〉によれば、中ノ沢の岩本善吉は「野地温泉の加藤某にこけしを習った」とあるが、その加藤某というのは加藤屋の佐藤嘉吉であろう。また〈 木形子研究〉には斎藤太治郎談として「加藤旅館の主人はこけしに造詣あり、中ノ沢のこけし作者は同氏について修業したものだ」という一文もある(〈こけしざんまい〉「こけしの旅」に再掲)。
その他に何人かの弟子も知られている。一人は中ノ沢の長島寅衛で、安積屋旅館の二男、寅衛は野地の嘉吉のもとで二冬木地を学び、中ノ沢でこけしを作った。その縁で安積屋は、嘉吉のこけしや木地製品を取り寄せて商っていた。しかし寅衛は大正9年に20歳で亡くなった。嘉吉は中ノ沢こけしの創生に関わった工人としても重要である。
また嘉平という弟子もいて、佐久間要助の娘と結婚したが若くして亡くなった。要助は佐久間勝、弥とは兄弟にあたる。
佐藤嘉吉は、仕事は几帳面で道具を毎日検査し、製品も仕上がりが気に入らぬとチョウナで割ったりしたという。硯作りの名人で書の達人でもあった。学者タイプで魚釣りや小鳥飼育を好んだ。弟子は君付けで呼び、自分の息子であっても仕事のときは佐志馬君といったという。
昭和4年10月20日没、65歳。

中央:佐藤嘉吉、嘉吉の向かって左:佐志馬

中央:佐藤嘉吉、嘉吉の向かって左:佐志馬野地温泉 加藤屋旅館

〔参考〕

  • 丹羽義一:嘉吉のこけし〈教室だより・14〉(昭和38年5月)(大阪こけし教室)
  • 野地幸雄:嘉吉のたばこ入れ〈木人形・4〉(昭和53年7月〉
  • 中根巌:嘉吉のこけし〈こけし山河・304〉(令和2年9月)(大阪こけし教室)
  • 箕輪新一:佐藤嘉吉の木地製品〈こけし山河・305〉(令和2年11月)(大阪こけし教室)
  • 山本陽子:地方博覧会・共進会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・5〉(令和3年4月)

 

 

[`evernote` not found]