佐々木覚平(ささきかくへい:1933~2007)
系統:南部系
師匠:佐々木与始郎
弟子:
〔人物〕 昭和8年6月5日、岩手県和賀郡横川目佐々木与始郎、センの三男に生まる。新制中学校卒業。木地は小学校在学中より父与始郎について修業した。昭和24年より北上市の木工所で新型こけしの木地を数年挽く。川口貫一郎が主宰した伊勢の〈こけし〉誌により名前は紹介されていたが、写真による紹介は〈こけしガイド〉が最初であろう。その後、藤根の鉄鋼所に勤め、農業、木地業と一人三役の生活を送った。そのためこけしは農閑期に主に作っていた。
佐々木家は代々花巻城の家老職を務めていたが、南部利直候(1576~1632)が慶長18年に花巻城に入城したあと意見が対立して二子城へまわされた。これを快しとせず、城を去って志戸平に移った。その初代覚平より志戸平で木地を始め、こけしを作ったこの覚平は九代目にあたるという。そのため、胴底署名には「九代目覚平」と書くことがあった。そして覚平の家には、先祖代々の立木製品のほかに、家伝の槍・印籠などが多く保管されていた。
なお、妻女のマツエも木地を挽き、描彩も行っていた。作品は大部分が覚平名義で世に出ていた。
平成19年11月11日没、行年75歳。
〔作品〕 初期の作は稚拙な趣を待っていた。昭和44年ころより蒐集家の柴田長吉郎と共同で佐々木家の歴史と木地業について研究を始め、志戸平に出掛けて古品発掘・聞書き・戸籍調査など自ら行なった。そのため、佐々木一家の古作に興味をもち、マント型をはじめ古い型を各種復元している。
下掲の写真のこけしは、志戸平の天王様に奉納されていた5寸を復元、東京こけし友の会昭和44年7月例会で頒布されたもの。
下の写真が上の覚平作の元になった古作〈こけし手帖・103〉。一説では佐々木与始郎の祖父与市の作ではないかと言われた。三筆で描くシンプルな鬢など、センの描彩と異なって古風に見える。
昭和44年頃は非常に研究熱心であり、志戸平の古作を次々に復元した。下掲のマント型の作や天江コレクションの古こけし(佐々木要吉作といわれる)の復元も行なった。
〔右より 18.2cm(昭和44年6月)マント型、17.8cm(昭和44年8月)要吉型、18.0cm(昭和46年)(橋本正明)〕
下掲の写真は天江コレクションの黒くなったこけしで、志戸平古作といわれているものを復元したこけしである。
〔右より 覚平 27.2cm(平成15年ころ)、志戸平古作 24.8cm(大正初期)(高橋五郎)〕 覚平が志戸平古作を写した作
父与始郎は描彩せず、もっぱら母センが描彩を行なっていた。覚平は、与始郎型のこけしの継承を行なうと同時に、セン以前の志戸平のこけしの追求・模索にも興味を欠かさなかった。
〔伝統〕 南部系
〔参考〕
- こけしの会同人:与始郎のこけし(木の花・21〉(昭和54年6月)
- 南部風影 志戸平
- 神田書肆ひやね・三土会 佐々木覚平のこけし