佐々木与始郎

佐々木与始郎(ささきよはつろう:1886~1951)

系統:南部系

師匠:佐々木与市/佐々木角次郎

弟子:佐々木覚平/照井哲也

〔人物〕 明治19年5月9日、岩手県稗貫郡湯口村(志戸平)38番地の木地業佐々木角次郎、リンの長男に生まれる。祖父は佐々木与市、叔父に要吉がいた。
「佐々木家は代々花巻城の家老職を務めていたが、南部利直候(1576~1632)が慶長18年に花巻城に入城したあと、利直侯と意見が対立して二子城へまわされた。これを快よしとせず、城を去って志戸平に移った。その初代覚平より志戸平で木地を始めた。」という伝承がある。初代覚平から与四郎―甚太郎―角平―善七―与市―角次郎―与始郎と続き、与始郎は八代目に当たる。
生母リンはさらに二男與初を生んだが、与始郎が7歳のときに亡くなり、父角次郎はまもなく後妻のヨ子を迎えた。弟の三男與五郎、四男與四郎はヨ子の子供である。
こけし文献では「与始郎」を「與始郎」と表記しているものもあるが戸籍表記では与始郎であり、二男與初以下では旧字の與を用いている。
志戸平は、明治初年頃には木地業が最も賑わい、その製品は盛岡、一ノ関、仙台方面にまで流通していたという。
与始郎は子供時代から家業の木地を身につけたが、祖父の与市も健在で、作業場では三代の木地師がロクロを並べて仕事をしていたという。明治38年頃には東京の三越からこけしの注文があり、一家をあげて大量に作ったという。この時は与市の描彩のものだったと思われる。
明治38年和賀郡笹間の斎藤栄助二女リヨと結婚したが、翌年長女栄子出産のおりにリヨは亡くなり、明治42年に和賀郡横川目の農業小原久太郎孫のセンを後妻に迎えた。
その頃の作業場は住居とは離れて建てられており、下図のように道路に面して4台のロクロを据え付けてあったという。
ただし、與五郎は明治26年生まれ、角次郎は明治40年に亡くなっているので、4台で仕事の出来た期間は短かった。おそらく角次郎の弟要吉が大沢に移る明治37年までは、要吉もロクロの一台を使っていたであろう。祖父の与市は大正3年まで健在であった。
与市の時代に昔から作られていたキナキナに、簡単な面描をくわえたり、赤・黄・青等の色を施したものが現れたようである。角次郎、与始郎は描彩は行わず、要吉がいろいろ工夫する人でマント型のこけしなどを作ったという。与始郎の描彩を引き受けていたセンは、与市から描き方を習ったといわれている。
明治40年代には、鳴子の伊藤松三郎高橋寅蔵、小田原の鈴木寅五郎などの木地師も志戸平に来て佐々木の作業場で働いたという。

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大正末期になると温泉土産の木地玩具は、セルロイドやブリキの玩具に押されて売れなくなり、木地業中心の志戸平での生活は難しくなったので、昭和5年7月、妻センの実家のある横川目に移り、農業を中心として木地を兼業とする生活に変わった。三男覚平は横川目で生まれた。覚平は、小学校在学中より与始郎について木地を学んだが、このころ与始郎には照井哲也という弟子もいたという。
こけしも注文に応じて製作、描彩は妻センが専ら行っていた。
与始郎は小柄であったが、豪気な性格で、喧嘩なども滅法強かったという。柔道も習っていて、花巻警察柔道部の最初の段位獲得者でもあった。親分肌で世話好きであり、この横川目地区の区長のような役も引き受けたりした。
 酒を好み、終戦時の酒不足のときに、軍が残して言ったドラム缶入りのメチルアルコールを飲んで身体を壊し、昭和26年11月30日横川目で没した、行年66歳。

佐々木与始郎

佐々木与始郎

佐々木与始郎

〔作品〕 まずは、与始郎の作かどうかは不明ながら志戸平の古作といわれているものを二種紹介する。下掲の黒こけしは、天江富弥が志戸平で発見したもの。 胴に3本のカンナ溝を配し、形態は他のどの産地のこけしとも共通点はない。見た印象はやはり佐々木一家の誰かの作という推定が最もしっくりする。キナキナから温泉土産のこけしへの進化途上の作かも知れない。

〔24.8cm(大正初期)(高橋五郎)〕  天江コレクション
〔24.8cm(大正以前)(高橋五郎)〕  天江コレクション

下掲のロクロ模様のキナキナは、頭部にベレー帽状の隆起を持つ極めてユニークなもの。三土新明会の「南部こけしの世界」に持ち寄られた藤田康城蒐集品である。いかにも古風で、衒いのない姿、乳飲み子の甘酸っぱい香りが漂うようなキナキナであった。肩から胴への直線的な形、胴裾の締め方など、与始郎の初期の姿に極めて近い。志戸平の古作であろうという判定が優勢であった。

〔11.0cm(年代不詳)(藤田康城)〕 志戸平古作か?
〔10.0cm(年代不詳)(藤田康城)〕 志戸平古作と推定される

以下には与始郎木地、セン描彩とはっきりしている作品を紹介する。
下掲は大正6年頃のもの、花巻で饅頭店を開いていた與五郎が持っていたもの。
與五郎は大正6年に兵役除隊になり志戸平に帰り、まもなく花巻に出て菓子製造業を始めた。花巻に出るときに記念にもって来たものだという。

〔23.8cm(大正6年頃)(橋本正明)〕 佐々木与五郎旧蔵
〔23.8cm(大正6年頃)(橋本正明)〕 佐々木與五郎旧蔵

下掲は秋田亮旧蔵の尺2寸5分、おそらく〈こけし這子の話〉掲載の天江蔵に近い作と思われる。


〔 37.2cm (大正15年3月)(鈴木康郎)〕 秋田亮旧蔵

下掲は加藤文成旧蔵の二本、右は所謂マント型で、佐々木要吉が考案したといわれている。その型を与始郎が挽き、センが面描を施したものであろう。左端小寸の花の胴模様、あるいは鳴子から来て働いた工人の影響があるかもしれない

〔右より 18.5cm、6.5cm(正末昭初)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション
〔右より 18.5cm、6.5cm(正末昭初)(調布市郷土博物館)〕 加藤文成コレクション

下掲は志戸平から横川目に移って間もない時期の作。木形子洞頒布もこれに近い。

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〔29.5cm(昭和7年頃)(橋本正明)〕

昭和10年以前は、肩から胴へのラインが直線的で、すっきりと立つ姿が美しいが、以降徐々にふくらみが大きくなり、面描も大振りで眼点の大きな作風に変わる。頭部の飾りも手の込んだ描き方のものが増える。

系統〕  南部系 佐々木のこけしは、他系統からの影響以前に、キナキナからこけしへと独自に進化した部分があり、発生研究上からも興味ある存在である。
明治期に三越に大量に卸したものなどどこかに残っていないか期待もある。三越児童博覧会(第1回は明治42年)などにも関わっていた可能性がある。

〔参考〕

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