佐々木セン

佐々木セン(ささきせん:1894~1966)

系統:南部系

師匠:佐々木与市

弟子:

〔人物〕 明治27年1月24日、岩手県和賀郡横川目村農業小原久太郎の孫に生まる。平仮名表記でせんとする文献もあるが、戸籍表記は片仮名のセンである。明治42年2月16歳の時、志戸平の佐々木与始郎と結婚。義祖父与市の指導をうけて夫与始郎の木地にこけしの描彩を始めた。義父角次郎はセンが嫁入りする前の明治40年に亡くなっており、佐々木一家の描彩は、与市、センが専ら担当していた。そして 大正3年に与市がなくなってからは、センが一家の描彩を一人でひきうけるようになった。
また、与始郎が、川でハッパ漁で魚を獲っていて、誤って爆発させ手に大怪我をした時にはセンが自ら鉋を取った事もあった。
昭和5年、木地専業では暮らしが立ち難くなったので、一家は横川目に移り木地兼業の農家となった。横川目でも農閑期にこけしを作った。
昭和8年に三男の覚平が生まれた。覚平は小学校在学中より与始郎について木地を学ぶようになった。昭和26年に、与始郎が亡くなってからは描彩を中止した。しかし、昭和34年の東京こけし友の会の旅行会の折に、与始郎こけしは実はセンの描彩であったことが判明し、蒐集家から依頼を受けて息子覚平の木地に再び描彩を始めるようになった。
昭和41年5月28日横川目没、行年73歳。


三男覚平とセン

描彩する佐々木セン  

〔作品〕 与始郎名儀の描彩は大部分センである。セン名義のこけしは、昭和34年復活して初めて蒐集家の手に渡ったが、与始郎名義の後期に比べて甘みが少なく、むしろ表情は鋭角的になっていた。この時期のこけしの胴底には「南部系 九代目 覚平 お母さんエ」と署名されることがあった。覚平木地、セン描彩の意味であろう。


〔 21.2cm(昭和36年)(高井佐寿)〕

下掲の木地の形態は覚平の独創であろう。


〔24.8cm(昭和40年9月)(久松保夫旧蔵)覚平木地 セン描彩〕 

〔伝統〕 南部系

〔参考〕

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