佐藤雅雄

佐藤雅雄(さとうまさお:1905~1947)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤勘内

弟子:佐藤直樹

〔人物〕明治38年1月20日、宮城県弥治郎南69の木地業佐藤勘内、ふよの長男に生まれる。母ふよは白石の高子仁四郎の三女である。弟に稔、次雄、妹に一枝、すえ、なか等がいた。父勘内は明治40年7月に分家、一家は弥治郎北19に移った。大正に入って勘内一家は鎌先の一条旅館に一室を借りて移り、勘内は温泉土産の木地類を挽くようになった。また勘内は大正6年と7年の二回にわたり、宮城県の補助金による木地講習会を開催した。大正7年に高等小学校を卒業した雅雄は、勘内について木地を習うとともに鎌先の木地講習会にも参加した。このときの講習会の仲間には鎌田文市、高梨小藤治、小原軍治、高野辰治郎など10人ほどがいた。大正13年勘内が水車工場を建てたときには、ここで鎌田文市と共に働いた。
昭和4年に柴田郡金ケ瀬村大平の村上源兵衛長女ケサヨと結婚、直樹、博、マサ子、雅弘、テイ子、光雄、善幸の五男二女をもうけた。父勘内は家族との折り合いが悪くなり昭和8年に東京の娘のところに移ったので、後の家族の生活は雅雄の双肩にかかるようになり、大勢の家族をかかえて苦労した。佐藤雅雄は、昭和8年橘文策の〈 木形子異報〉により作者として名前が紹介され、昭和13年10月〈木形子・4〉で写真紹介された。大頭で優美な眉、眼を大きく引いた優作であった。

〈木形子・4.〉右から二本目が雅雄

昭和10年代の第1回こけしブームの時には鎌先で渡辺幸九郎と共に注文に応じて製作にはげんだ中堅工人であった。こけしは仙台の陸奥売店などでも売られた。
昭和14年11月零落した父勘内が白石の知人の家に厄介になり、胃病を患って衰弱していたのを雅雄は鎌先の家に引き取って看病を続けたが、勘内はその年の12月26日に57歳で亡くなった。
「父勘内の奔放な放蕩ぶりと反対に、むしろ寡黙で実直な人柄であった。」と鹿間時夫は書いていた。
昭和20年ころには白石の虎屋にで働いていたが、昭和22年5月5日に没した、行年43歳。 


佐藤雅雄父子 昭和16年6月29日 撮影:田中純一郎

〔作品〕正末昭初より昭和22年に亡くなるまで生活のためもあり仕事に励んで作った作品はかなりの量であったと思われる。勘内からの伝承であるが筆致は勘内よりやや太く、表情は整っていて破綻がない。一家の生活の柱となっていたためか作品に遊びはなく、折り目正しく崩れることのない作風だった。鹿間時夫は「甘美で特殊な情味がある〈こけし辞典〉」と書いたが、表情は笑ってはいない。若くして一家の柱とならざるを得なかった雅雄の「背筋を伸ばした几帳面さ」をむしろ感じる。
また橘文策は「頭に赤、青、黄、紫などのロクロ線を組み合わせた、美しい毛糸帽子のようなものを冠らせ、その下から柔らかい頭髪を覗かせた可憐さは、同系統中の秀逸といえよう〈こけしと作者〉」と書いた。


〔 30.4cm(昭和10年)(高橋五郎)〕


〔右より 17.0cm、20.9cm(昭和14年頃)(日本こけし館)〕 深沢コレクション


〔18.7cm(昭和14,5年)(沼倉孝彦)〕

下掲のように独特の染料を用いた時期もあった。色彩は華麗であるがあくどさはない。


〔25.0cm(昭和15年頃)(鈴木康郎)〕

作品は大きな年代変化はなく、下掲の晩年作にいたるまで作風が衰えることはなかった。
老年まで生きることが出来て、生活の心配が解消され、心にゆとりの出来た雅雄の作が見たかった。


〔 26.7cm(昭和20年頃)(高井佐寿)〕

〔伝統〕弥治郎系栄治系列
佐藤栄治―勘内―雅雄―直樹とつながる家系。栄治が遠刈田の佐藤周治郎の弟子となったためか、巻き絵のロクロ線の間に重ね菊や旭菊等の花模様を描いた。
直樹が雅雄型を作ったことがある。
佐藤直樹への指導は行えたが、若くして亡くなったので佐藤雅弘にまでは木地を伝えられず、雅弘は兄直樹に習い、さらに仙台の我妻吉助の職人となって技術を身につけた。

〔参考〕

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