佐藤久吉(さとうきゅうきち:1858~1905)
系統:遠刈田系
師匠:佐藤文吉/田代寅之助
弟子:菊地勝三郎/菊地茂平/岡崎栄治郎/太田庄吉/海谷善蔵/海谷七三郎/佐藤久助/佐藤子之助/佐藤久蔵
〔人物〕安政5年10月11日、宮城県刈田郡遠刈田新地の木地業佐藤久蔵の長男に生まれる。父久蔵の妹トヨは弥治郎佐藤東吉へ嫁し、その下のトラは新地の佐藤文吉に嫁していた。
久吉は、明治6年16歳で義理の叔父佐藤文吉について二人挽きを三年間修業し、その後独立して木地業に従事した。明治12年柴田郡大谷村の遠藤左惣治二女りんと結婚した。
明治18年旧正月に東京本所の木地師田代寅之助が入村すると寅之助の弟子となって当時の先進技術であった一人挽きを習得した。その後寅之助はしばらくの間久吉家で過ごしていたが、明治18年7月丹野倉治に招かれて青根へ移った。このとき、久吉も茂吉、重松とともに田代寅之助に従って丹野の職人となった。当時の青根は、寅之助に技術を受けるべく、弥治郎の佐藤幸太、青根の菊地勝三郎、槻田与左衛門が集まり、箱根木地製品の導入とともに、こけしにも新しい描彩法が考究された変化の中心地であり、久吉もこうした運動の一翼を担っていた。
久吉が青根で養成した弟子には、菊地勝三郎、菊地茂平、蔵王高湯の岡崎栄治郎、秋保の太田庄吉、山形県東村山郡出身の海谷善蔵、海谷七三郎などがいた。
田代寅之助が去った後も、佐藤茂吉、重松とともに丹野の工場に残り、青根における木地業を確立させた。
明治38年7月6日青根にて没した、行年48歳。
〔作品〕こけしも多く作り、たいへん上手であったといわれているがその作品は残っていない。
〔伝統〕遠刈田系吉郎平系列、久吉家。
叔父佐藤文吉は吉郎平家出身で茂吉家へ養子に入っており、木地は吉郎平系列。久吉は文吉の伝統を継承した。
久吉の後継者は前述の弟子のほか、息子の佐藤久助、子之助、久蔵兄弟がいる。また、弥治郎の佐藤栄治は従兄弟であると同時に妹フヨが嫁いでいるので、義理の弟にもあたる。したがって、弥治郎とはしばしば往来し技術を指導している。現在、純粋に久吉の伝統を受けついでいるこけし工人はいないが、太田庄吉を経由して秋保のこけしにはかなり影響が残っていると考えられる。
〔参考〕