青根の商店主であり、また木地工場を経営した人物。
明治15年ころから遠刈田新地や箱根から木地製品を仕入れ、これを青根温泉の浴客に商っていた。職人を雇い自らの工場で浴客からの需要が高かった木地製品を生産することを思いたち、東京から仙台を経て遠刈田新地に来て働いていた田代寅之助を、明治18年に青根に招聘して、佐藤仁右衛門旅館の裏に設立した木地工場で木地を挽かせた。
田代は一人挽きロクロの優秀な技術を持っており、遠刈田新地の佐藤茂吉、久吉、重松や、作並出身の槻田与左衛門、青根の菊地勝三郎、弥治郎の佐藤幸太等が職人として丹野工場で働きながら、田代と師弟関係を結び一人挽の技術を学んだ。
丹野は当時先進地であった箱根、日光の木地玩具、雑器を見本として移入し、これを職人たちが種々工夫して土地風に改め、ここで考案工夫された玩具だけでも100種類以上にのぼったという。ただし、生産に対して原材料には制限があり、この間職人として膽澤為次郎や寅治郎と称する木地師も丹野工場を訪ねてきたが、いずれも材料不足のため青根を去った。
明治19年春には丹野倉治は工場をさらに拡張し、田代寅之助の弟子たちは一人挽きロクロで生産に勤めるようになった。一方で田代寅之助は技術は非常に優れていたが勤勉な方ではなく、弟子たちが働くようになるとほとんど仕事をしなくなった。明治19年6月には、田代は借金返済に困り高飛びして青根を離れたので、以後は弟子たちが協力して営業を続けることとなった。
佐藤文平も新たに職人として働いた。さらに菊地勝三郎は改めて久吉の弟子となり、佐藤幸太も茂吉の弟子となった。また新しく蔵王高湯から来た岡崎栄治郎、勝三郎の義兄菊地茂平、秋保から来た大田庄吉が久吉に、築館町玉沢出身の鈴木三吉、土湯から来た佐久間常治(阿部常松)が茂吉にそれぞれ弟子入りした。
丹野工場の経営は明治22年不況のため一時打撃を受けたが、やがて回復、こけしもしだいに売れるようになった。現在伝統的模様として各地の工人が描いている模様の多くは、このとき完成されたものである。特に作並から来た槻田与左衛門は指導的役割をはたし、崩れ桜や二本線の割れ鼻等は作並からの伝承、あるいは槻田自身の考案による様式である。また佐久間常治(阿部常松)は地蔵型といった土湯のくびれの形態を伝えた。
明治29年茂吉、重松の両人は青根を去り、遠刈田へもどったが、明治30年代に入ると青根ははるかに遠刈田を凌いで、その製品は秋保、仙台、白石、山形、蔵王高湯、飯坂方面まで進出する等、全盛時代を迎えた。久吉を中心として息子の久助、子之助、久蔵や佐藤文作、海谷七三郎、海谷善蔵、大沼新三郎等がこの丹野工場で働いた。明治38年久吉が没し、同40年に工場主丹野倉治が亡くなってから、丹野工場は衰微の一途をたどることになり、わずかに温泉地青根の需要を満たすだけの生産規模となった。
丹野倉治は工場主で木地を挽いたわけではないが、青根の地に工場を建てて経営し、田代寅之助を招いて当時最先端であった一人挽き技術を駆使して生産にあたらせたため、各地から多くの工人が青根に参集することになった。その結果、遠刈田、弥治郎、作並、秋保、土湯の工人が同じ工場で木地を挽きこけしを生産したので、各産地の様式が混交することとなった。丹野工場が縮小局面に入るとそこで生まれた様式をもって各工人たちは自分の本拠地や新天地に移っていったので、多様なこけし様式が各産地に定着し、新たなこけしの系統分布が生じることとなった。蔵王高湯も岡崎栄治郎や阿部常松、鈴木三吉などが新様式を持ち帰ることによって成立した。
それ以前のこけし様式は、土湯、遠刈田、作並・鳴子くらいの三つの大きなグループ程度であったが、青根の丹野工場から帰った工人たちの影響のもとに11系統と呼ばれる様式上の分化が生じることとなった。丹野工場は、こけしの歴史においては極めて重要な工場であった。