佐藤春二

佐藤春二(さとうはるじ:1903~1982)

系統:弥治郎系

師匠:佐藤幸太/佐藤味蔵

弟子:井上ゆき子

〔人物〕明治36年3月2日、宮城県刈田郡八宮村11番地(弥治郎)の佐藤幸太・すくの五男に生まれる。五男であるのに名前にニがついているのは誕生日の「三(月)ニ日の人」を組み合わせると「春二」になるからということであった。兄に今三郎、慶治、味蔵がいる。四男栄太郎は生後1ヶ月足らずで亡くなった。
大正5年14歳より父幸太について木地を修業したが、末子のため主に兄味蔵の指導を受けた。大正15年4月24歳で、福島県熱塩に移った。喜多方の人に熱塩には土産品店がないと聞かされたことが動機となった。熱塩ではみやげ物店を開業し、こけしや玩具などの木地製品を販売した。
開業後間もない大正15年8月に仙台の天江冨弥から注文を受けた。このときの注文で作ったこけしは〈こけし這子の話〉に掲載された。大正15年11月には兄今三郎の雑器作りの手伝いに一時弥治郎に戻るが、翌昭和2年3月再び熱塩に戻った。この年に結婚している。
〈こけし這子の話〉で紹介されたので、早くから蒐集界に知られることにになった。以後、こけしの製作は、晩年の昭和53年ころまでほとんど休みなく続けられ、自ら経営する土産物店「戯木堂」に並べられた。
戦後は村会議員を三期つとめたが、昭和33年に屋根から落ちて足を怪我したので議員はその期で引退した。議員生活の間は、こけし製作数は落ちていたが、引退後は足踏みロクロをモーターロクロに変えて、昭和34年ころから再びこけしを多く作るようになった。
昭和44年には新型こけしの木地を挽いていた井上四郎が、春二に旧型の指導をうけ、春二型を継承するようになった。その描彩は主に妻ゆき子が行った。
昭和53年6月に怪我をしてから製作を中止、昭和56年11月から会津若松市のエルムホームに入所した。昭和57年3月23日没、行年80歳。趣味は魚釣りであった。


佐藤春二

佐藤春二 昭和47年
佐藤春二 昭和47年

〔作品〕春二のこけしは兄の味蔵の影響下に完成されたもので、春二自身「自分の頭の形は味蔵に倣ったものであり、自分の型では胴下部に太い紫のロクロ線を入れているがこれも昧蔵から受け継いだものだ。」と語っていた。味蔵の型に種々工夫も加えたようで「俺は職人ではなくて、親方の倅だったから、弥治郎の職人として縛られることなく、自由に作ることができた。そこで、いろいろなこけしを作ったものだ。」とも語っていたという。
下掲3本は、天江コレクションにあったもの、左2本は〈こけし這子の話〉に掲載されている。大正15年8月の天江富弥の注文に応じて製作したものである。紫や橙の染料を多用したため、天江富弥は高く評価しなかったが、いかにも子供のおもちゃらしい魅力があり、春二の本領が発揮されたこけしである。


〔右より 15.2cm、20.3cm、18.5cm(大正15年)(高橋五郎)〕 天江コレクション

下掲の5寸5分もほぼ同時期の作、描彩の保存がよい。材料の木が経年の乾燥で変形しているが、立てるとやや体を曲げているように見えて愛嬌がある。

〔 17.0cm(昭和2年頃)(鈴木康郎)〕

下掲の鈴木鼓堂旧蔵2本のうち、左端は天江注文とほぼ同時期の作。この前髪と鬢の繋がる描法はこの時期以降あまり用いていない。


{ 右より 23.5cm(昭和7年)、18.0cm(昭和2年)(鈴木鼓堂旧蔵)〕

下掲3本は昭和10年代のもの。この時期になると胴の上端のロクロ模様が描かれなくなる。〈古計志加々美〉では「艶麗な彩色、豊麗な面相、丹念な仕上げが特色的であって、こけし作者としての天稟を備えている。」と評し、この頃より春二の人気は高くなった。
昭和17年頃には麻布時代の「たつみ」より多く売られた。

 
〔右より 23.0cm(昭和13年)(目黒一三)、29.0cm(昭和14~15年)(目黒一三)、39.0cm(昭和16~17年)(橋本正明)〕

〔24.5cm(昭和34年10月)(庄子勝徳)〕
〔24.5cm(昭和34年10月)(庄子勝徳)〕

昭和43年、都立家政時代の「たつみ」の依頼により、白鳥正明蔵の昭和初期の春二作を復元したが破綻のない秀作であった。


〔 25.6cm(昭和43年)(橋本正明)〕 昭和初期作の復元 たつみ頒布

また戦後には、父幸太の型や、幸太が遠刈田で指導を受けた佐藤茂吉の型を作った。茂吉型は、茂吉の写しというよりは茂吉の様式を春二のスタイルで再現したこけしであった。

系統〕弥治郎系幸太系列

〔参考〕

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