佐藤貢

佐藤貢(さとうみつぐ:1905~1963)

系統:遠刈田系

師匠:小原直治

弟子:佐藤重一

〔人物〕明治38年8月、旅館業佐藤重右衛門長男として青根温泉に生まれた。姉にいさおがいる。父重右衛門は佐藤重太郎、ゆのの長子である。祖父重太郎は遠刈田の佐藤周右衛門の弟で、青根の先代佐藤重右衛門の長子ゆのの婿に入った。こけし工人となった佐藤菊治は先代重右衛門の孫であり、ゆのは菊治の叔母にあたる。
明治39年4月、貢が2歳のとき青根に大火があり、旅館2館、駐在所を含む5戸48棟を焼失した。父重右エ門の旅館も被災した。貢は尋常小学校を卒業すると、しばらく子守をして家計を助けたが、大正8年15歳より小原直治について木地の修業を始め、師の直治が没する大正11年まで修業を続けた。師匠の直治は、遠刈田の佐藤周治郎の弟で青根の小原仁平の養子に入った人、貢の父重右衛門の従兄弟にあたる。このとき直治のもとには、相弟子の真壁儀造がいた。真壁儀造は青根の近くの川崎村裏丁の出身、14歳で小原直治の弟子となったが、20歳のころに肺を病んで亡くなった。
貢は師匠の直治が亡くなった後も、木地挽きの仕事を続け、昭和7年からは佐藤菊治や菊地孝太郎と共に青根木工組合で働いた。しかし次第に遠刈田や箱根の製品に押され、さらにブリキ細工も入ってきたため、木地業では立ち行かなくなり、土産物店を開業した。
昭和11年に長男の重一が生まれた。
昭和15年ころより徴用で各地を歩き、さらに終戦まで青根の海軍病院で働いた。
終戦後足踏みロクロを新たに取り付け木地業を再開、こけしや玩具を作った。昭和24年より動力口
クロに切り換えた。昭和30年には長男の重一がロクロに向かって木地を挽くようになった。
以後土産物店経営のかたわら、こけしを作っていたが、昭和38年6月20日に没した。行年59歳。
 


左より 佐藤貢、佐藤重一 昭和36年 撮影:露木昶

〔作品〕 戦前の作品は残っていない。
下掲の米浪庄弌旧蔵のこけしは現存するものとしては古い時期のもの。表情は弱いが後年のものと比べると鋭角的で甘さが少なく、幾分師匠の小原直治の雰囲気も残している。おそらく、戦前青根で貢が作っていたこけしは、こうした直治ゆずりのこけしだったと思われる。


〔21.9cm(昭和27年1月)(米浪庄弌旧蔵)〕

戦後に青根に多くの観光客が入るようになると、土産物店の経営者でもある貢は、観光客の好みに合わせるようになり、そのこけしは表情の甘いやや近代的な装いに変わって行った。


〔21.5cm(昭和33年頃)(高井佐寿)〕

佐藤貢は木地師としての血筋もよく、技術の伝承環境も良かったが、戦前は土産物店経営や徴用などの仕事でこけしを作る余裕は殆どなく、戦後は昭和38年に59歳で没したので、新型から再び伝統に回帰した第二次こけしブームには遭遇できなかった。もし生存していれば、佐藤菊治や菊地孝太郎と並んで小原直治はじめ大正期の青根の古型復興に貢献していたかも知れず残念であった。

〔伝統〕遠刈田系周治郎系列

 

 

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