佐藤守正(さとうもりまさ:1926~2017)
系統:遠刈田系
師匠:朝倉英次
弟子:我妻信雄/佐藤一夫/信太昭
〔人物〕大正15年12月4日、福島市大町の木地業佐藤静助の長男に生まれる。父佐藤静助は遠刈田の佐藤周右衛門の直系曾孫にあたるが、大正14年より福島に出て菅野菊好堂の職人を勤めていた。昭和12年には曾根田町で独立開業したが、昭和14年2月守正が14歳の時に亡くなってしまった。従って父より木地の指導を受ける機会は殆どなかった。昭和15年尋常高等小学校を卒業後、東京に出て電気会社に事務員として勤めたが、終戦後昭和20年9月に父静助の故郷遠刈田に移り、その年の11月より北岡木工所で働いていた叔父の朝倉英次について昭和22年まで木地の修業を行った。朝倉英次は昭和22年に仙台に移ったが、守正はその後も北岡工場で佐藤護、照雄、林平等とともに働いた。昭和24年に北岡工場の下手に自宅を構え、新たに北岡工場に入った佐藤治郎、高橋広平等とともに働いた。昭和25年からは我妻信雄が、昭和26年には佐藤一夫が来て弟子となった。他に佐藤功、斎藤悟という弟子もいたが、この二人は間もなく転業した。以後北岡工場で働き続けたが、昭和43年4月に自宅の前を店に改築して、こけしを並べるようになった。下の写真は遠刈田寿町のその店の跡であり、後ろに見える二階家が北岡工場の建物である。
旧守正宅と店、後ろの二階家は旧北岡工場(遠刈田 寿町)
手前の壁面に守正の文字跡が残る
昭和60年には弟子であった佐藤一夫が本格的に遠刈田でこけし製作を開始するにあたって、描彩のコツを一夫に伝授した。
その後、新地への橋を渡ったすぐ右手の新地西裏山に自宅を建てて移った。
平成20年代後半になると体調は特に優れず、来客にもほとんど会わなくなっていた。高齢のため、こけしを作る意欲も無くなっていたようであったが、夕食時に僅かの酒をたしなむ事が晩年の楽しみで、それは欠かしたことがないとも語っていた。
平成29年12月9日没、行年92歳。
なお、佐藤守正の妻女澄子も、守正の木地に時々描彩することがあった。
三越本店で実演してこけしを挽く佐藤護。
左が佐藤守正。 (昭和40年10月)
〔作品〕 こけしの製作は昭和20年に遠刈田の北岡木工所時代に入ってからであるが、当初作ったこけしは、木地の師匠朝倉英次の作風を継ぐというよりは、当時主流だった新型風のものであった。昭和30年代に入って、若くして世を去った父静助のこけしを復元するようになり、生来の筆力と熱心な研究により、一筆目の静助のこけしを十分再現できるようになった。
戦後のこけしブームの時期には遠刈田の新進の工人として活躍し、昭和40年10月には佐藤護に付添って上京し、三越本店で実演を行った。
〔右より 20.8cm、13.5cm(昭和37年)(橋本正明)〕 静助型
戦前から戦後の北岡工場では、多くの工人が職人として働いたが、作るこけしは工場主北岡仙吉名義で蒐集家の手に渡った。北岡仙吉名義のこけしにはコゲスと呼ばれた肩のこけた作り付けが多くみられるが、守正も4寸ほどのコゲスを各種作った。
また筆力あり、腕も良かったので、いくつかの古い遠刈田系不明こけしの復元なども、依頼されると行っていた。昭和43年には曾祖父周治郎の弟である小原直治のこけしを復元した。いずれも水準の高い復元であった。
闊達な筆力と、若々しい近代的な感覚が魅力であり、戦後の遠刈田こけしの一つの典型を創り出した。
〔右より 23.2cm(昭和45年5月)高橋五郎蔵峨々古作復元、
21.8cm(昭和44年8月)小原直治型(橋本正明)〕
〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列