万延の頃に静岡に生まれた。箱根、東京で木地挽きの技術を身に付け、明治10年代から30年代にかけて東北各地を歩いて木地を挽いた。当時の先端的な技術であった足踏みロクロ(一人挽きロクロ)をこけし産地に伝えた工人でもある。
従来の文献では、伊沢為次郎あるいは井沢為次郎と表記されていたが、公式史料である〈福島県林野資料〉の表記により膽澤為次郎が正しいとされる。
特に土湯、鳴子の一人挽きは膽澤為次郎の指導によるところが大きい。
明治18年4月(一説には明治17年)、土湯では米穀商の加藤屋の二階に作業場を作り、滞在場所の井枡屋旅館から通って足踏みの技術を伝えたという。5ヶ月間の予定であったが実際の指導は1ヶ月間であったという。
明治31年の鳴子では沢口吾左衛門宅にロクロを据えて足踏みの一人挽きを指導した。
為次郎は、背が高く黒い顔で、目じりの下がった不男であったが、ずんぐりした上体を支えた両脚はたくましく左右に開いて、相撲あがりのような体躯をしていた。見るからに精力的で、酒を好み、一日一升くらいは平気であったという。身なりには頓着せず乞食(ほいと)同様の風体だったためボロタメと呼ばれたりしたらしい。しかし、腕は非常に立ち、盆を挽かせては比類がないので盆為(ボンタメ)とも呼ばれていた。いったん仕事に入ると、昼食の時間を15分くらいとるだけで、晩まで働いたので通常の工人の5倍くらいの仕事をしたともいう。
技術は非常に優れていて、土湯加藤屋の佐藤兵吉が木地屋番付を見たところ、東の大関が丹保小又、西の大関が膽澤為次郎と大書されていたという。
下掲の表にほぼ確かと思われる膽澤為次郎の事績をまとめた。
下表の記載のほかに、明治20年ころ鶴岡の鈴木重久(重久の弟の孫が柏倉勝郎)に木地を教えたのは膽澤為次郎だろうという説もある。また明治30年ころ山形の小林倉吉が日光見物に出かけたとき日光で膽澤為次郎にあって、為次郎が挽いた盆を仕入れて山形で売った等の話も残っている。明治38年に土湯を再訪した時にはかなり零落していたようだが、その帰りに飯坂の鯖湖にも寄って渡辺角治に会っている。ただ、その後の消息は一切不明である。
膽澤為次郎から足踏みロクロ技術を導入したことにより、土湯ではロクロ模様、特に返しロクロの手法なども生まれ、鳴子には肩などに鉋の波彫を刻むビリ鉋の手法が伝えられた。
木地挽きが一人作業となることにより、作者の創意工夫の幅が広がり、それがこけしの系統分化を促すことになった。その意味において膽澤為次郎は、今日のような系統を持ったこけしの世界の確立にとって、重要な人物であった。
年号 | 年 | 月 | 膽澤為次郎事績 |
万延 | 1 | このころ静岡に生まれる | |
明治 | 10 | 箱根で木地を学び、東京の木地工場で働く | |
明治 | 18 | 4 | 土湯の井桝屋に滞在、加藤屋の二階作業場で足踏みロクロの技術を伝えた 弟子:佐久間由吉、西山辨之助、阿部熊治郎、佐藤嘉吉、阿部金蔵、渡辺久吉 〈福島県林野資料〉では明治17年1ヶ月間の指導とされる。 |
明治 | 18 | 10 | 青根に田代寅之助を訪ねて1ヶ月ほど滞在、盆などを挽く |
明治 | 30 | 日光で盆を盛んに挽いた。小林倉吉があっている | |
明治 | 31 | 鳴子の沢口吾左衛門宅で、足踏みロクロの技術を指導 弟子:高野幸八、高橋万五郎、高橋利四郎、高橋勘治、遊佐雄四郎、大沼新兵衛、大沼熊太郎、熊治郎 |
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明治 | 33 | 北海道登別で働く。鳴子の万五郎の弟子深見久蔵の世話をする。 | |
明治 | 34 | 山形小林倉治の家を訪ねる | |
明治 | 35 | 四国阿波剣山下にて足踏みロクロの技術を教えた | |
明治 | 38 | 野地温泉で20年ぶりに加藤屋の佐藤嘉吉の父兵吉に出会い、野地の兵吉のもとで働いた 土湯を再訪し弟子たちと旧交を温めた 鯖湖に渡辺角治を訪ねた、ここでしばらく職人をしたともいう |
[参考]
- 西田峯吉:土湯における足踏みろくろ技術の導入について〈こけし手帖・157〉(昭和49年4月)
酒井誠師採録:〈福島県林野資料〉(明治38年)
佐藤兵吉談「土湯ハ戸数八十八戸アレドモ木地挽ハ二十戸アリタリ何レモ綱引ニシテ耶麻郡高森、大沼郡桑沢ト同ジキ器械ヲ用ヰタレドモ二人ヲ労セズシテ一人ニテ製作スルノ勝レタルヲ以テ足踏ミ轆轤ニ改良セント欲シ明治十七年静岡ノ人膽澤為次郎ヲ招聘シテ教師トナシ五ヶ月間授業スル約束ナリシガ已ムヲ得ザル事故アリテワズカニ一ヶ月ニシテ去レリ然レド其教ニヨリ漸次改良シテ今日ハ二人挽ヲ用フル者ナキニ至レリ」 - 佐藤泰平:土湯でこ探求〈木でこ・2〉(昭和34年12月)
土湯で為次郎が足踏みロクロを指導した作業場の加藤屋、左が加藤屋の娘ユワ(明治8年2月17日生まれ)で為次郎来訪のことをよく覚えていた。「手拭一本ぶら下げ草鞋ひとつで、ぶらりひょっこり土湯にやって来た。誰の招きでもない。」と語っていた。
一方で、佐藤兵吉が「招聘して教師とした」と語ったという上記の記録もある〈福島県林野資料〉(明治38年)。 - 橘文策:放浪の工人 伊沢為次郎(1)〈こけし手帖・115〉(昭和45年10月)
- 橘文策:放浪の工人 伊沢為次郎(2)〈こけし手帖・116〉(昭和45年11月)
- 橘文策:放浪の工人 伊沢為次郎(3)〈こけし手帖・119〉(昭和46年2月)
- 橘文策:放浪の工人伊沢為次郎〈こけしざんまい〉(昭和53年7月)