鈴木米太郎(すずきよねたろう:1870~1934)
系統:山形系
師匠:小林倉治/阿部常松
弟子:鈴木安太郎
〔人物〕 明治3年12月9日、山形県西村山郡寒河江町上西小路の大工棟梁鈴木彦兵衛長男として生まる。女の兄弟が二人いた。鈴木家は代々彦兵衛を名のり、米太郎の祖父に当たる人も腕の優れた神社、仏閣等の彫刻師であった。父の彦兵衛も、京都の大工家元吉田大納言より棟梁の免許を受けた本格派の棟梁であった。しかし、棟梁は家を離れて普請場に滞在することが多く、家族との接触が少ない寂しさがあったので、息子には同じ道を歩ませず、米太郎を木地の修業に出すことにした。そこで米太郎は、明治15年春、山形市六日町の小林倉治に入門することになった。神尾長三郎、奥山安治等と共に木地の修業を行った。また倉治の長男倉吉も明治17年頃から修業を始めたが、年齢が近かったので非常に仲が良く、倉吉とは終生親戚同様の付き合いをした。多くの木地玩具のほかに、こけしもこのころからかなり作られるようになったので、倉治の描彩をまねて盛んに練習した。明治18年兄弟子の奥山安治が故あって、倉治のもとを去った。明治20年小林一家は旅籠町に移ったので、米太郎も共に旅籠町に移った。明治24年に年期が明けたが、土湯出身の阿部常松が青根で学んだ一人挽きの技術を伝えたので、一年間奉公を延ばしその技術を習得した。
明治25年、寒河江の実家に戻って独立、西根村の渡辺きよと結婚した。明治28年に長男安太郎が誕生した。
木管を主体に、雑器や玩具を多く作り、こけしもこのころから明治42、3年ころまでは盛んに作った。最も売れたのは丸に金の字を打った独楽であった。小林兼告が職人として働いたこともあった。明治40年頃より長男安太郎も木地を手伝うようになった。市の立つときにはお盆、独楽、こけし等の露店を出し、楯岡や左沢等にも売り歩いた。大正6年からは、長男の安太郎に家業一切をまかせ、ほとんど木地を挽かなくなった。昭和9年6月25日、脳溢血のため没した。行年65歳。
〔作品〕 米太郎の現存するこけしは極めて少ない。秀島孜旧蔵で鹿間時夫の手に渡ったもの、小山信雄旧蔵のもの、三原良吉旧蔵で高橋正夫の手に渡っていたもの、西田記念館のものと四本程度しか確認できていない。寒河江において米太郎がこけし製作を行った最盛期は明治38年から40年頃、大正6年以後はほとんどロクロに上がらなかったというから、これらの作品は皆、明末大初のものと思われる。
下掲写真の鹿間旧蔵の作は、昭和14年に秀島孜が寒河江の鈴木安太郎を訪ねた折に入手したもの。保存もよく、最盛期の米太郎の作風を知る事のできる貴重な作である。
阿部常松が山形に一人挽きを伝えた現場に立ち会っており、いわば新技術導入によって作並系から山形系への発展を体験した工人である。山形系こけしの創成に加わった工人の一人であり、そのこけしは貴重である。
米太郎型は、小林清次郎により復元された。
〔系統〕 作並系山形亜系 (山形系)
〔参考〕
- 安孫子春悦:「寒河江のこけし」鈴木米太郎と安太郎〈こけし手帖・85〉(昭和43年4月)
- 安孫子春悦:「寒河江のこけし」鈴木米太郎と安太郎(つづき)〈こけし手帖・86〉(昭和43年5月)