瀬谷重治(せやじゅうじ:1924~2004)
系統:土湯系
師匠:岩本芳蔵
弟子:瀬谷幸治
〔人物〕 大正13年2月24日、福島県郡山市の会社員瀬谷市十の二男に生まれる。昭和14年郡山の木地師松村一四郎に弟子入りして木地の技術を身につけた。昭和18年より郡山氏柳町の渋谷木工所の職人となって働いた。昭和19年横浜に転出、鶴見製鉄所に入所、戦時中の重労働をこなした。残業深夜の握り飯の味は忘れられないと語っていた。昭和20年1月、召集に応じ入隊、北朝鮮で終戦を迎え、ソビエトの東シベリヤに送られて苦しい抑留生活を送った。昭和24年7月に帰国。父と共に農業に従事した。昭和28年9月より、福島県耶麻郡猪苗代町樋ノ口の田村材木店に職人として勤めた。岩本芳蔵も当時この材木店で働いており、採用時の技術の検分役であった。採用時も採用後も芳蔵には非常に世話になったようだ。昭和32年11月まで芳蔵からこけしの指導も受けた。指導は細部にわたり、目の大きさなどの可否を何回も指摘されたという。「俺の胴模様は牡丹だから、おまえは桜を描け」といわれ重治は本人型には桜の胴模様を描くようになった。
その後、郡山市喜久田、会津若松などの木地屋を転々として働いた。
やがて猪苗代町に落ち着いて、昭和44年頃から自宅の作業場でこけしの製作に取り組むようになった。昭和46年に「たこ坊主の会」が結成され、翌47年正月に横浜・東京の百貨店で芳蔵の実演があったので重治も応援に参加した。
昭和47年からは長男幸治が木地の修業を始めて、親子二人でこけしを製作するようになった。東京都立家政のこけし店「たつみ」から注文を受け、善吉型の体系的な復元に取り組んだ。昭和48年2月に師匠の岩本芳蔵が他界した。その後も継続的にこけしを製作したが、平成16年7月8日に没した、行年 81歳。
〔作品〕 瀬谷重治がこけし蒐集界から注目されるようになったのは昭和44年からである。昭和44年の東京こけし友の会9月例会の頒布で初作として岩本善吉型が紹介された。下の写真の22.7cmである。この復元作の元になったのは鹿間時夫蔵(〈こけし美と系譜〉図版116に顔だけ掲載されているもの)であった。胴は芳蔵の指示通り桜を描いた。
〔22.7cm(昭和44年9月)(橋本正明)〕
初作として東京こけし友の会9月例会で頒布(〈こけし辞典〉図版のもの)
この頒布が評判になり、その後色々な善吉のこけしを研究して復元を行うようになった。
〔右より 21.5cm、30.8cm、22.0cm(昭和47年3月)(橋本正明)〕
昭和47年ころにからは東京都立家政にあったこけし店「たつみ」の森亮介が盛んに瀬谷重治に、善吉の古作復元を依頼するようになり、特に昭和47年には、武田利一、小林昇、小山信雄、箕輪新一らの岩本善吉の古品を借り出して、それを持参して目の前に置きながら復元をしてもらうようになった。復元の出来はいづれも高水準であり、これが「たこ坊主」のこけしのブームのきっかけになった。
〔右より 22.2cm、15.5cm(昭和47年4月)(橋本正明)〕
右端は武田利一蔵品の復元
〔20.3cm(昭和47年4月)小林昇蔵品の復元、30.6cm(昭和47年12月)名和好子蔵品の復元、26.5cm(昭和47年)名和好子蔵品の復元、26.7cm(昭和48年)箕輪新一蔵品復元、24.5cm(昭和48年)川口貫一郎蔵品の復元)(橋本正明)〕
実物を見ながらの復元で、岩本善吉のこけしの本質を把握できたので、天江コレクション、名和コレクション等の古品を、写真によって復元する場合においても一定水準以上の完成度になっている。
〔右より 38.2cm(昭和47年5月)、25.5cm(昭和47年7月)(橋本正明)〕
たつみでは西郷型と称して頒布
(天江コレクション7寸3分の写真による復元)
〔右より 22.7cm(昭和49年4月)、 18.4cm(昭和51年6月)(橋本正明)〕
武田利一蔵品復元
晩年は徐々に様式化、定型化していく傾向があったが、善吉型継承者としてその伝統を守り続けた。
〔系統〕 土湯系中ノ沢亜系
〔参考〕
- 山本直三郎:工人瀬谷重治と木地修業〈こけし山河・38〉(昭和51年3月)