長谷川清一(はせがわせいいち:1898~1981)
系統:鳴子系
師匠:小林弥七
弟子:
〔人物〕 明治31年4月18日、秋田県鹿角郡十和田町城ノ下の大工職長谷川長蔵、みよの長男として生まれる。大正3年17歳の頃に日光から来た小林弥七について木地を習得した。6ヵ月の修業後独立し、大湯で開業した。昭和5年〈日本郷土玩具〉で写真紹介された。昭和20年以降、こけしの製作は休止し、その後十和田町大湯温泉で雑貸店を営んだ。
昭和56年10月16日没、行年84歳。
〔作品〕土橋慶三は〈こけしガイド〉に、「こけしのはめ込み技術を小林弥七について習ったという」と書いているが、木地の師匠小林弥七は日光木地師といわれており、清一のこけしに弥七からの伝承があるかは不明である。むしろ木地は弥七に習い、こけしは大湯にいた小松五平のものを参考にして工夫したものであろう。
橘文策は、清一のこけしを「可愛らしい花簪を挿した二重顎の豊満な娘振りは此地方路上で見受ける美人系で、迫力侮りがたい。」と評した。
下掲、特に左端は〈こけし人形図集〉にも取り上げられており、現存する極初期の作例である。まだ染料も思うように入手できなかった時期と思われ、胴には顔料系の色も使われている。下掲二本は共に顔の下部に墨一筆で顎の線が描かれている。このあと、顎の線は赤一本になり、また赤二本になり、さらに顎の線の描かれないものも現れるようであるが、顎の線の描法が製作年代の特徴指標になっているか確かではない。
〔右より 18.2cm(昭和5年頃)、24.3cm(大正末期)(鈴木康郎)〕米浪庄弌旧蔵
下掲右端が上掲左端を掲載した〈こけし人形図集〉図版であるが、この左端にある無彩の小寸(11.2cm)はおしゃぶりとも異なり不思議な作品である。
下掲二本も同様の無彩のもの、右は嵌め込み様、左はキナキナ様に揺れる嵌め込みになっている。この手は古い蒐集家の蔵品中にいくつか散見する。長谷川清一本人は、この嵌め込み技術を小林弥七からの伝承と語っていたという〈こけしガイド〉。
〔右より 10.6cm 鈴木鼓堂旧蔵、10.2cm(昭和7年頃)、(鈴木康郎)〕
下掲左3本は上掲に続く時代で昭和10年頃、左二本には赤線一本の顎の線が描かれている。右二本には顎の線は描かれていない。この時期までの赤の染料は濃くくすんでいて、鮮やかな発色ではない。右端は赤の染料の色が明らかに変わっている。深沢要は昭和16年3月に大湯を訪問しているので、その時入手したものかもしれない。
〔右より 12.1cm(昭和16年頃)、17.0cm、24.8cm、23.6cm(昭和10年頃)(日本こけし館)〕深沢コレクション
下掲は昭和13年頃の作、顎の線は無い、〈古計志加々美〉には昭和13年作が掲載されていて「やや近代的な匂いが漂うが、一種の風格を持ち捨て難い味がある」という評がつけられている。形態は下掲と比べてやや太めであるが、面描および胴下方に縦の茎に交差するように右方に描き下す葉の様式は共通である。
〔系統〕鳴子系 小松五平の影響があるので一応鳴子系とする。
今晃、大湯の小林和正、由利本荘の佐藤こずえが長谷川清一型の復元を行なった。
〔参考〕
- 長谷川清一と小松五平
〔右より 16.8cm 小松五平(昭和初期)、24.3cm 長谷川清一(大正末期)(鈴木康郎)〕
上掲の2本、木地の形態は非常に良く似ている。しかも胴上下の赤いロクロ線の染料はほぼ同じでややピンクがかった薄い赤でである。ただ五平の胴中央の花の赤はやや濃く、ロクロ線の赤とは異なる。こうしてみると同じ大湯にいた小松五平と長谷川清一とは互いに強い影響関係があったのみならず、こけしの木地の融通も行なっていたかもしれない。 - 鈴木康郎:続々 私の秋田のこけしー長谷川清一〈こけし往来・19〉(平成18年3月)
- 第127夜:二重あごのこけし: こけし千夜一夜物語Ⅱ
- こけしの話(32) 長谷川清一:無為庵閑話Ⅱ – ウェブリブログ
- 伝統こけし(古品小寸・豆こけしコレクション)