高野孝作

高野孝作(たかのこうさく:1906~1945)

系統:鳴子系

師匠:高野幸八/岡崎斉

弟子:

〔人物〕  明治39年2月10日、宮城県玉造郡鳴子村高野幸八・つるよ(戸籍表記まつよ)の次男に生まる。明治36年生まれの兄幸一は、生後2ヶ月で亡くなったため、孝作が事実上の跡取りであった。
子供のころから父幸八の仕事を見て木地に親しんでいたが、大正9年7月15歳の時に幸八と死別したため正式に指導をうけたことはなかった。その後、岡崎斉の職人となり働きながら、木地技術を習得した。斉の所へきたころは、こけし、こまの木地程度は挽ける技術を持っていたが、こけしの描彩を始めたのは斉の職人時代である。昭和11年母つるよとともに福島県若松市善久町へ転居した。昭和12年に安積郡福良村の堀五郎長女ヒサと結婚、同年12月若松市大字藤室字七日町へ転居した。ヒサとの間には四女をもうけた。昭和20年5月20日午後3時ルソン島ラグナ洲バナハオ山において戦死、行年40歳。従来の文猷には幸作となっているが、戸籍名は孝作である。ちなみに孝作の祖父は幸作である

〔作品〕 中屋惣舜旧蔵品中(〈こけし 美と系譜〉図版54)に作者不明の鳴子系こけしがあり、あるいは大沼健三郎の初期の作品かとされていた。同寸法の岡崎斉の古作こけしと木地のフォルム、ロクロ線、カンナ溝などがよく似ていることから、中屋惣舜が鳴子に持参し、岡崎斉に鑑定してもらった結果、高野孝作のものと判明した。岡崎斉の職人としてある程度の量、こけしを製作したものと思われ、時おり古い収集家のこけし棚に散見することがある。


〔18.3cm(昭和7年頃)(中屋惣舜旧蔵)〕〈美と系譜〉掲載

胴の描彩に、他にあまり見ることがない三つ股の菊模様を描くことがある。昔、鳴子でよく作った針差しの蓋に描いた模様だという。蓋が三つに分かれるものに描くのには恰好の模様であった。福島に移ってからは製作していないから、孝作のこけし製作時期は、昭和初年から7、8年であろう。
下掲の写真は石井眞之助蔵品中にあって、長く大沼新兵衛作と言われていたもの。新兵衛は自分の作ではないと言い、以後作者不明であったが中屋惣舜旧蔵と同趣であり、中屋惣舜は高野孝作と判定した。
胴模様は三つ股の菊ではなく五弁の桔梗が描かれている。この桔梗は岡崎斉の家では良く描き、中屋蔵の孝作にも、本間留五郎作にもこの模様はある。
なお、石井眞之助蔵品中には、この手の作が三本あったが、他の二本の消息はわからない。

〔28.4cm(昭和8年ころ)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵 大沼新兵衛名義
〔28.4cm(昭和8年ころ)(橋本正明)〕 石井眞之助旧蔵 大沼新兵衛名義

この石井旧蔵の新兵衛名義については、かつては本間留五郎説を唱えるものもあった。新兵衛が仙台に出た後の留守宅で注文を受けた大沼希三(後藤希三)が困って、自分が職人をしていた岡崎斉吉工場の仲間本間留五郎に頼んで作ってもらったものではないかというのがその説であった。ただ、確かに、新兵衛名義の留五郎作は存在するが、それは下掲写真のようなこけしであり、上掲孝作とは、筆法、木地の形は全く異なる。したがって上掲写真のこけしは高野孝作ということで落ちついた。


大沼新兵衛名義の本間留五郎 〔31.5cm(昭和11年頃)(鈴木康郎)〕

系統〕 鳴子系 幸八系列 ただし、岩太郎系列の岡崎斉からの影響が強い。

 

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