高橋金太郎(たかはしきんたろう:1843~1906)
系統:鳴子系
師匠:大沼又五郎
弟子:高橋万五郎/伊藤松三郎
〔人物〕 天保14年8月2日鳴子の塗物師高橋万作(萬作)の次男に生まれる。父万作は高橋万右衛門の弟で、実家の下手に別家として独立していた。万右衛門の家を挟んで、その上手には大沼又五郎の家があった。金太郎は大沼又五郎について木地を修業、同時に父万作について塗物の技術を学んだ。
父の万作は天保13年に漆器商を開業したという〈府県漆器沿革漆工伝統誌〉。この伝統誌は、明治18年4月から6月にかけて上野公園で開催された「繭糸織物陶漆器共進会」の際、製造者に「出品解説」として祖先の伝記や現在に至るまでの沿革の提出を課してまとめたもの。
金太郎はこの「繭糸織物陶漆器共進会」には茶杯と木鉢の二品を出品している。
明治21年4月に鳴子漆器改良組合長沢口吾左衛門が宮城県知事に提出した報告書(沢口吾左衛門文書)には、木地挽29名、塗師21名、漆器商8名、蒔絵師3名、刺物師3名が記載されているが、高橋金太郎は塗師として報告されている。なお「繭糸織物陶漆器共進会」に金太郎と並んで出品した遊佐貞吉は沢口吾左衛門文書の漆器商の部にその名がある。
金太郎は宿屋を営みながら木地を挽いていたという。高橋金太郎の長男は万五郎で、小松留三郎、小松五平、伊藤松三郎はその万五郎について木地を学んだ。松三郎は金太郎について、「何でもよくできた人で、ブローカーをして他人をごまかすというのでごま金太などと陰口をいわれた」と語っている〈鳴子・こけし・工人〉。しかし「筆達者で、こけしも随分描きました。木地を挽くのは俺で、それに金太郎が描いたんです。」とも語っていた。明治39年1月31日鳴子において没した、行年64歳。
〔作品〕 確認できる金太郎のこけしは残っていない。しかし、伊藤松三郎は11歳から2年ほど金太郎のそばで木地を学んでいたので、金太郎のこけしを記憶しており、楓を上下に描く6寸ほどのこけしや、楓、牡丹の小寸の立ち子をつくって金太郎型と称していた。
また松三郎には、色紙に金太郎の描彩を描いたものがある。
松三郎による金太郎が描いた模様
〔右より 12.3cm、12.2cm、12.1cm(昭和44年)(橋本正明)〕
松三郎が作った立ち子、特に左2本の一筆目で鼻を二筆で描いたものを金太郎型と称していた。
〔伝統〕 鳴子系金太郎系列。金太郎に始まる一群の工人を金太郎系列に分類している。
〔参考〕
- 山本陽子:地方博覧会・共進会とこけし産地の木地業〈きくわらべ・5〉(令和3年4月)