高橋梧郎(たかはしごろう:1901~1982)
系統:南部系
師匠:鶴田正市
弟子:高橋金三/高橋金四郎
〔人物〕明治34年1月12月、岩手県和賀郡笹間村(現花巻市)中笹間の仏画師高橋庄吉の五男として生まれた。22歳のとき北海道へ渡ったが、脚気を患ったため24歳で帰郷した。花巻で傘口クロ(和傘の部品)の目立て職人をしていた兄庄四郎のすすめで鶴田正市について木地の手ほどきを受け、矢田目式傘ロクロ機(傘ロクロを簡単に挽けるように改良したロクロ)により傘ロクロの製作を開始した。翌年25歳のとき、静岡に行って新式の芦川式傘ロクロ機を一週間習い、これを導入し
た。当時花巻には、傘ロクロ業者が、高橋悟部、八重樫与五郎、中井佐吉の三軒あり、江刺郡口内町(現北上市)の鶴田正市、同郡岩谷堂町(現江刺市)の佐藤七之助と計五軒で競争したため、最初一個四銭五厘だったのが一銭五厘まで下がった。そこで、八重樫与五郎、佐藤七之助と協定を結んだ。傘ロクロは昭和25、6年まで挽いていた。
こけしは終戦後間もなく、電気の不自由な時代に足踏みロクロで挽いたのが最初である。
晩年は木地は挽かず、描彩のみであった。弟子には息子の金三、金四郎の二人がいた。
昭和57年3月15日没、行年92歳。
〔作品〕〈こけしガイド〉改定版では「こけしも若いとき盛んに作ったという。すでに老齢であるが、最近また作り始めている。」と紹介しているが、実際には戦後に作った輸出用こけしが最初で、南部系のこけしとして古くからあったものではない。
〔伝統〕 南部系。 伝統による製作というよりは南部における一般型の創作である。
〔参考〕