高橋佳隆(たかはしよしたか:1927~1995)
系統:土湯系
師匠:高橋忠蔵
弟子:高橋通/高橋美恵子
〔人物〕 昭和2年11月21日、秋田県由利郡相馬郡鳥海町の柴田良治・ハナの二男に生まれる。昭和21年に木地業を志し、原ノ町の高橋忠蔵の弟子となって木地の修業を行った。昭和23年師忠蔵の三女昌子と結婚、養子縁組をして高橋姓となった。高橋忠臣は義兄にあたる。
その後、木地業の先行きに不安を感じて原の町役場に勤務した。昭和28年に長男通が誕生した。昭和29年には上京して、京王帝都電鉄に入社、管財部用地課で勤務した。当初は会社の寮生活であった。昭和35年、住居を東京都日野市百草317に構えた。その年に義父高橋忠蔵が原ノ町の家を引き払って日野市百草園の佳隆の家に移り、同居するようになった。昭和36年に忠蔵はこの家の一隅に工房を構えてこけしを製作した。佳隆も昭和37年ころより、勤務の傍らこの工房でこけし製作を行うようになった。原ノ町時代は木地のみで描彩はさせてもらえなかったので、昭和37年が初作である。忠蔵を訪ねる蒐集家から、佳隆のこけしも求められるようになりすこしづつ作るようになったが、本格的に作り始めたのは昭和46年ころである。日曜や会社の年次休暇はほとんどをこけし製作に費やした。佳隆の長女は大阪の忠蔵庵相良都義に嫁した。昭和49年に高橋忠蔵の個展が小田急百貨店であり、そのころから会社とこけし製作の両立が難しくなったので、昭和51年1月に会社を辞し、こけし製作専業となった。長男の通もこのころから木地を学んでこけしを作るようになった。
昭和56年に義父の高橋忠蔵が他界した。
昭和55年、日野の工房が手狭になったこともあり、忠蔵の開業の地、また佳隆の誕生の地である原ノ町に新工房を建てた。しばらく、原ノ町と日野との生活を続けた。
佳隆の次女美恵子も昭和56年よりこけしの描彩をはじめ、昭和57年春頃からは佳隆について木地の修業も始めた。
昭和61年、佳隆は日野を離れて福島県原ノ町市に移り、こけし製作を続けるようになった。平成7年5月12日没、行年69歳。
〔作品〕 高橋佳隆の自挽き自描の初作は昭和37年に東京のこけし店たつみで少数頒布された。初出の文献は三彩社〈こけし〉(昭和40年)。
昭和48年ころから、鯖湖の鯨目を追求した面描になった。長女が大阪の忠蔵庵相良都義に嫁したこともあり、こけし製作に気持ちを集中させるようになった。「一番苦労したのは本人型の顔を作ること。人真似をしては駄目だと言われたので、自分独立のもの、しかも土湯の、鯖湖の、そして忠蔵の流れに沿ったものと心懸けた。」と語っていた。
〔右より 16.4cm、16.4cm(昭和50年)(橋本正明)〕
こけし製作に気持ちがこもるようになるにつれて、会社とこけし製作との両立が難しくなり、昭和51年1月に会社を辞めて、こけし製作に専念するようになった。
〔30.9cm(昭和51年)、29.2cm(昭和62年)(高井佐寿)〕
〔 21.0cm(昭和58年)(橋本正明)〕 東京こけし友の会30周年記念頒布
〔伝統〕土湯系鯖湖亜系
高橋忠蔵の作風は、佳隆を経て長男通に継承された。
〔参考〕
- 高橋佳隆:「私とこけし」〈こけし手帖・195〉(昭和52年6月)
- 情念の凍結/高橋佳隆の初作または初期作こけし