高橋通(たかはしとおる:1953~)
系統:土湯系
師匠:高橋忠蔵/高橋佳隆
弟子:高橋順子
〔人物〕 昭和28年1月13日、福島県原ノ町の役場勤務高橋佳隆、昌子の長男に生まれる。父佳隆は昭和29年には上京して、京王帝都電鉄に入社した。一家は京王帝都電鉄の寮に移った。昭和33年に妹の美恵子が生まれた。昭和35年一家は東京都日野市百草317に住居を構えた。それと同時に祖父高橋忠蔵は原ノ町を引き払って日野市百草の佳隆の家に移って木地を挽くようになった。また昭和47年の学生時代にデパートのこけし展(東観)でアルバイトなどをした。通は立教大学法学部に入学したが、在学中の昭和50年頃より祖父高橋忠蔵、父高橋佳隆について木地を習得した。昭和51年大学卒業後、正式に作品を発表するようになった。東京では教員生活を送る合間(おもに冬休み、夏休みのみ)のこけし製作であった。
昭和61年、日野市より原町市大木戸に工房を移転。平成元年より平成13年春までは、東京での教職(講師)と原町でのこけし製作と半々の生活であった。
平成13年春に原町市大木戸に住居も移し、こけしの製作に専念するようになった。妻の順子も平成14年頃よりこけしの製作を始めるようになった。
平成23年の東日本大震災で被災し、住居が福島第一原発から23kmという避難地域にあったため、家族で白河の知りあい宅に避難、そして、南会津町のペンション、半年後に、山形市と転々とした避難生活を送った。その期間は周期的に原ノ町の家へ通ってこけし製作を続けるという日々を送った。
避難指定解除後にようやく福島県南相馬市原町区大木戸の自宅に戻ってこけしを作ることが出来るようになった。
〔作品〕下掲写真は昭和50年の習作時代のこけしであるが、鯖湖古作の情感を十分に表現した佳作であった。技術以前に、感覚の確かさが感じられる作品だった。
〔右より」18.5cm、18.6cm(昭和50年)(橋本正明)〕
試作習作時代とは言え、鯖湖の古風な情感を感じさせ、また高橋通自身の若々しい魅力もあって、初心の花と言うべき作品であった。
〔右より 16.8cm、16.8cm(昭和50年)、達磨の初作2個 (橋本正明)〕
祖父高橋忠蔵の型も破綻なく作り続けており、高橋通としての作風が完成してきている。
〔右より 18.3cm、21.2cm(昭和52年)(高井佐寿)〕
〔右より 15.2cm(平成29年6月)高野辰治郎型、18.2cm(平成29年6月)忠蔵型、(平成15年8月)鯖湖古型(中根巌)〕右端は木地高野辰治郎、描彩キンの鯖湖古型復元
なお高橋通の署名には下記のような変遷がある(〈地梨・43〉および松田ひろむ調査 )
- 昭和50年より「通」はしんにょう(之繞)の点が一つの新字体。豆・小寸は「と」。
- 昭和53年の一時期「ツウ」(これは、仙台こけし会の佐藤茂が「キン」や粋・通の「ツウ」と重なっていいといわれ、一時期使用。
- 昭和60年の一時期、「百草」と記入。
- 昭和61年、原町市大木戸に移住後は、「三十三年春」と年齢と季節を記入。
- 平成元年以降。「平成元年」などとした年号表記と年齢表記を併用。また「二〇〇〇年、二〇〇一年」などと西暦表示としてものもある。
- 平成13年以降。しんにょうの点を2つの旧字体「通」にする。
- 平成16年以降。「平成十六年春」というように、基本的に年号と季節のみにする。
〔伝統〕土湯系鯖湖亜系
〔参考〕
- 高橋通の署名の変遷について:〈地梨・43〉地梨の会(平成17年11月)渡辺紀好発行
- 第155夜:子持ちえじこ(高橋通): こけし千夜一夜物語Ⅱ
- 高橋通工人 – こけしと手織りの小部屋