箱根木地師。姓は不詳、名は寅治郎であるが、角力くずれで太っていたため通称でぶ寅と呼ばれていた。出生地、師匠名、生年月日なども一切不明。
東北地方の足跡でわかっているのは、明治18年晩秋に膽澤為次郎が去ったあとの土湯に現われ、阿部熊治郎の家へ滞在して、熊治郎、常松に一人挽きロクロ(足踏みロクロ)の新しい技法を教え、さらに膽澤為次郎を追って青根の丹野倉治の工場へ行った。青根でも為次郎はすでに去った後であったが、田代寅之助のもとで家具類などを挽いた。しかし、材料が不足していたため、約半月で青根を去ったという。阿部常松が土湯を離れて青根に行ったのも、寅治郎の後を追ってのことだったかもしれない。
寅治郎の青根以後のことは全くわかっていない。
いずれにしても、東北地方ヘ一人挽きロクロの技術を伝え、こけし産地の木地業に大きな影響を与えた工人の一人として、膽澤為次郎、田代寅之助とともに特記すべき木地師であることは確かであろう。斎藤太治郎は「寅治郎は玩具一方の木地師で、こけしは作らなかったが、こま、笛、らっぱなどを作った。それまで土湯のでこは胴に赤と黒の二色であったが、これから青や紫を入れるようになった。」と語っていた。