田山和文(たやまかずふみ:1953~2024)
系統:南部系
師匠:石井誠朗
弟子:田山和泉
〔人物〕 昭和28年1月8日、岩手県八幡平市(旧西根町大更)の製材技師田山正蔵の4男に生まれる。自家の近くに木地業石井誠朗の妻の姉が居て、同じ町会であったため親しく、中学2年のころから石井のところで仕事をしないかと勧められて、中学卒業と同時に、正式に盛岡の石井誠朗のもとで木地を学ぶことになった。
石井誠朗の先代は石井峰吉で、広島から来た人。 実に多才な人物で、いろいろな活動、分野に手を伸ばして活躍した。刻字扁額を作り、禅宗にも造詣が深かったという。昭和12年に自分の工場を五葉社と名づけて開設したが、その五葉は、「一華五葉を開き、結果自然に成る」という禅宗の初祖菩提達磨大師が慧可に伝えた伝法偈からとったという。郷土人形の製作も行ったようで、戦前川口貫一郎が企画、牧野玩太郎、山田猷人が協力した袖珍こけしでは第5回頒布(昭和18年11月)の71番として石井峰吉の名が見える。いま田山和文の手元には山田猷人描く、安保一郎こけしの小画が残されており、石井峰吉と袖珍こけしメンバーとの接触が確認できる。峰吉は戦争直後に、盛岡市北夕顔瀬町に木地工場を移した。
石井峰吉が、どこで木地を習得したか明確ではないが、誠朗は戦後木工場五葉社の職人をしていた小椋亀重から主に木地を習得した。また誠朗が学んだ盛岡工業高等学校の後輩だった安保一の父安保一郎の仕事を手伝った関係から、安保一郎からも技術の指導を受けた。
田山和文は、昭和43年に北夕顔瀬町の工場に入って、木地を学ぶと共に石井誠朗が亡くなるまで一緒に仕事を続けた。
平成10年からは長女和泉が描彩を学び始め、翌年からは木地も挽くようになった。
峰吉が身体を壊して木地を挽けなくなったので、平成11年から誠朗はこの工場の経営を引き継ぎ、こけし、きなきな、木製土産物品、郷土人形などの木工芸品を工夫し、製作している。
また工場では予約により体験学習の受け入れも行っており、参加者は絵付けや、ちゃぐちゃぐ馬っこの製作体験が出来るように企画されている。田山和文は同様の企画を盛岡市繋にある盛岡手づくり村においても行っている。
現在は父娘の二人で木工場五葉社を守っている。田山和文は峰吉から数えて、五葉社三代目、和泉は四代目となる。
今この五葉社には、工場に隣接した小博物館も開設されていて、石井峰吉、誠朗のこけしやきなきな、郷土人形などが展示されていた。田山和文自身も研究熱心だったので、こけし関係の文献や資料も丹念に集めていた。
令和5年2月7日没、行年72歳。
〔作品〕 田山和文が木地を挽き始めた昭和43年頃は、戦後のこけしブームでもあり、また土産物用のこけしや玩具も盛んに売れた時代であった。石井誠朗と共に、主として土産物用のこけしをたくさん挽いた。
安保一郎は昭和36年に没したが、長男一(はじめ)は後を継がなかったので、その廃絶を惜しむ声が大きくなった。そこで安保一名義のこけしが作られるようになったが、その木地は石井誠朗が挽き、女性の描彩者が一郎風の描彩を行ったものであった。その後、石井誠朗も安保一郎の型を継承したこけしやきなきなも作るようになった。
共に仕事をしていた田山和文も、同様に安保一郎の型を継承している。
また岩手県下のこけしで廃絶したものの復興にも熱意を示し、一ノ関の宮本永吉型も作る。
〔 21.2cm 、21.2cm(平成16年)(高井佐寿)〕
安保一郎の描彩つきのこけしを継承。 右端はくり坊。
〔右より 18.4cm、17.9cm(平成27年)(橋本正明)〕 きなきな
きなきなは安保一郎からの系譜である。
〔系統〕 南部系
〔参考〕