石井誠朗(いしいせいろう:1929~2007)
系統:南部系
師匠:安保一郎/小椋亀重
弟子:田山和文
〔人物〕 昭和4年6月9日、広島に生まれる。中学生くらいの頃、義父石井峰吉・ツル夫妻に迎えられて盛岡に移った。石井峰吉は、実に多才な人物で、いろいろな活動、分野に手を伸ばして活躍した。刻字扁額を作り、禅宗にも造詣が深かったという。昭和12年に日中戦争が始まると中国の漆が輸入できなくなり、岩手の二戸漆が日本の需要の8割を満たすような状況になった。それを契機として岩手県下の漆業者150名で岩手県漆器組合聨合会が組織され、石井峰吉がその初代理事長に就任した。峰吉自身、自分の工場を五葉社と名づけて開設した。その五葉社は禅の伝法偈から取った名前だった。
石井峰吉自身も木地を挽いたがその技術の伝承経路ははっきりしない。多彩な経歴の中でいろいろな技術を身につけていたので、その間に木地挽きの技術も習得したものと思われる。
昭和16年に盛岡市で開催された県産漆器展示会では峰吉は漆器を出品して銅賞及び佳作を受賞している。また昭和17年には岩手県漆器組合聨合会の理事長に再選されている。
峰吉の木工場五葉社は戦争直後に、盛岡駅の北方の北夕顔瀬町に移った。
石井誠朗は、盛岡工業高等学校を卒業後、峰吉の工場五葉社に入り、そこで職人をしていた小椋亀重から木地を学び、佐藤信から漆塗りを学んだ。また、安保一郎の息子一(はじめ)が盛岡工業高等学校の後輩であった関係から、安保一郎の仕事も手伝うようになり、一郎からも木地の技術を学んだ。。
昭和36年に安保一郎が亡くなると、安保のこけし廃絶を惜しむ声が高くなった。安保一郎の長男一(はじめ)は木地を挽かなかったが、代わりに石井誠朗が木地を挽き、一郎時代の描彩者(林たもつ、高橋マサ等)が絵付けをした安保一名義のこけしが世に出ることとなった。
昭和43年には、誠朗の妻の姉が嫁いだ先の近所にいた八幡平市の田山和文が、姉の紹介で誠朗に弟子入りした。
平成に入ると体調をこわし、木地の製作はほとんど出来なくなった。平成11年8月1日、木工場五葉社は、田山和文に引き継いでもらうことになった。
晩年は脳梗塞や糖尿病を患って入退院を繰り返していたが、平成19年7月24日に没した。行年79歳。
〔作品〕 安保一郎譲りのキナキナは、南部の正統的なキナキナの形を継承している。
安保一郎の描彩を付した型も製作した。下掲の一郎型は平成12年のものというが、この年代が正しければ誠朗は既に体調を崩してロクロに上がれない時期なので田山和文が挽いて誠朗名義で蒐集家の手に渡ったものかもしれない。
このほかに本人考案の描彩つきの作品もある。
石井誠朗はこけし工人というより、木工民芸の作者であり、土産物用の木工製品を各種製作した。こけしはその一部としての製作であった。
〔系統〕 南部系