石井峰吉(いしいみねきち:1893~1964)
系統:新型・創作
師匠:
弟子:石井誠朗
〔人物〕こけし作者石井誠朗の義父。広島県山県郡北広島町壬生にて明治26年2月26日に生まれた。峰吉は、実に多才な人物で、いろいろな活動、分野に手を伸ばして活躍した。刻字扁額を作り、禅宗にも造詣が深かったという。昭和12年に日中戦争が始まると中国の漆が輸入できなくなり、岩手の二戸漆が日本の需要の8割を満たすような状況になった。それを契機として岩手県下の漆業者150名で岩手県漆器組合聨合会が組織され、石井峰吉がその初代理事長に就任した。峰吉自身、自分の工場を五葉社と名づけて開設した。その五葉社は禅の伝法偈から取った名前だった。
石井峰吉自身も木地を挽いたがその技術の伝承経路ははっきりしない。多彩な経歴の中でいろいろな技術を身につけていたので、その間に木地挽きの技術も習得したものと思われる。
昭和16年に盛岡市で開催された県産漆器展示会では峰吉は漆器を出品して銅賞及び佳作を受賞している。また昭和17年には岩手県漆器組合聨合会の理事長に再選されている。
峰吉の木工場五葉社は戦争直後に、盛岡駅の北方の北夕顔瀬町に移った。
石井峰吉の没後、五葉社は義子の誠朗が継いだが、平成11年誠朗が高齢になり引退した後は、弟子の田山和文が継承している。
昭和39年9月24日没、行年72歳。
〔作品〕昭和16年から18年にかけて東京こけし界から頒布された袖珍こけしと称される小寸(4.8cm)のこけしがあるが、その第5回頒布(昭和18年11月」)の頒布番号71に石井峰吉の作がある。
〔4.6cm、4.6cm(昭和18年)(目黒一三)〕 袖珍こけし No.71 左は田山和文の復元。
下掲の製作時期は袖珍こけしの時期とそう変わらないと思われるが、5寸5分ほどの大きさの峰吉が残っているのは珍しい。峰吉のこけしは伝統的なものではなかったが、戦前の地域文化活動の中で製作されたものとして資料的な価値はある。
〔伝統〕南部系のこけしではなく石井峰吉の考案によるもの。
〔参考〕