朝倉公明

朝倉公明(あさくらきみあき:1949~)

系統:遠刈田系

師匠:朝倉英次/佐藤照雄

弟子:

〔人物〕昭和24年11月21日、宮城県仙台市の朝倉英次、きぬの三男に生まれる。秀之、光洋は兄である。
公明は小学校高学年の頃から、独楽を作りや英次こけしの蝋仕上などを手伝っていた。中学生になると母きぬが描彩する作り付け細胴の木地を挽いたこともあった。昭和40年4月に高校入学、41年に英次が倒れ、昭和43年4月高校卒業後し、東京に出てエンジニアリング会社に入社した。専門性の高い電力関係の仕事を任されていたが、昭和47年になると父英次から「退職して家業を継げ」との連絡が頻繁に来るようになり気持ちが動揺した。上司が親身になって相談に乗ってくれ、昭和48年1月仙台支店への転勤できることになった。木地はある程度挽けたが英次の意向もあって、同年6月より仕事の傍ら週末の二日間は泊まり込みで佐藤照雄、憲雄、護に就いて木地技術を学んだ。
昭和48年7月11日に父英次が62歳で他界した。
昭和51年9月の第22回全国こけし祭りに、審査品と奉納こけしを1本づつ、また即売品20本の合計22本を出品した。コンクールへの出品はこの1回だけだった。この出品は我妻吉助からの強い勧めがあったためという。亡き英次への敬意と、公明の門出を祝う吉助の粋な計らいであろう。吉助の息子敏と公明は小学校の同級生であった。出品作品は全てボタ菊模様8寸だった。その後も遠刈田通いは続いたが、昭和51年11月に丸のこで左手を負傷したのを機に3年5ヶ月の修業を止めた。昭和53年に蒐集家からの注文で自宅の轆轤で10本程作った。その後は全く製作していない。昭和57年に兄光洋がこけし家業を継ぐために二十人町に越して来たので、公明一家は転居した。以後、平成21年定年退職までサラリーマン人生を全うした。
百歳で亡くなった母きぬは、公明一家と晩年を共に過ごした。

前列 左より 朝倉英次・なつ・きぬ 
後列 公明・光洋・秀之・理恵子

朝倉公明

朝倉公明

〔作品〕昭和40年頃の父朝倉英次の作風を継承したこけしを極一時期製作したことがある。
こけしを製作し正式に販売したのは、昭和51年の全国こけし祭りの即売品20本と昭和53年の数本だけである。こけし店には一切出していないので、現存するもの僅少である。


〔 24.5cm(昭和41年)(高井佐寿)〕


〔右より 24.5cm(昭和42年)(中根巌)、23.8cm(昭和47年11月)木地朝倉英次、24.3cm(昭和50年)、18.0cm、17.8cm(昭和53年)(朝倉公明)〕


上の図版のこけしの署名

〔伝統〕 遠刈田系周治郎系列

〔参考〕

  • 中根巌:朝倉公明のこけし〈伊勢こけし会だより・177〉(令和6年6月)

 

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