長谷川健三

長谷川健三(はせがわけんぞう:1942~)

系統:津軽系

師匠:長谷川辰雄

弟子:長谷川優志

〔人物〕 昭和17年6月25日、大鰐の木地師長谷川辰雄・キヨの三男として生まれる。5歳頃まで青森県南津軽郡大鰐町蔵館で過ごした。
昭和22年秋、父・辰雄が旅館業・佐賀某にスカウトされたため、下北郡の下風呂温泉に一家で引っ越しをする。この仕事は長く続かず、昭和23年下北郡大畑に移転し、辰雄は材木屋の駒井製作所で働くようになった。ここで辰雄は木工家具、船の欄干、手すりを多く作り、こけしはたまに製作した。野球のバットを作ることもあり、健三はこれを使って野球をやった。辰雄は玩具では鳴り独楽、ずぐり、輪投げ、ジョーバ、臼などを作った。昭和35年3月青森県立名部高校大畑分校を卒業、健三も大畑の駒井製作所に入社した。 駒井製作所時代に、木工の技術を身につけることが出来た。
昭和40年代に入ってこけしブームになると、注文に対して父の辰雄は大鰐に居る甥の佐々木金一郎の木地に描彩をして送り返すことが多くなった。やがて辰雄は収集界からの要請に応えるため、大鰐に移って金一郎のもとで製作するようになった。
しかし、あまり長い間佐々木の家の厄介になることも出来ないので、辰雄は弘前に場所を借りて、健三を呼び寄せ、ここで共に製作することにした。健三は大畑ではロクロは一切やっていないが、駒井製作所時代に木取りなどの木工作業には十分習熟していた。
健三の記憶では32歳まで大畑にいて出てきたということだが、カメイの工人録等では昭和51年10月、34歳に木地修業を開始したことになっているので若干ずれがある。
健三の木地挽きの修業の際には、本田功(高瀬善治・小松五平の弟子)も辰雄の元で職人をやったので、鳴子式に立ってロクロに向かい、上からカンナ棒を握って挽くやり方を身につけた。立ってロクロに向かうやり方は健三の息子・優志も継承している。健三の談話では、本田功は刃物を作るのがうまく、借りて挽くと違うな、と思ったという。
健三が35歳の時に町田の小田急百貨店で実演があり、人づてに紹介されていた平川出身の女性を連れて弘前に帰り結婚した。この実演には小林和正(高瀬時男の甥)が同行した。なんとか一人でできるようになった頃だという。昭和53年に長男の優志が生まれた。
弘前市の観光施設「津軽藩ねぷた村」は昭和56年に開設され、当初から健三や本田功が入った。この頃独楽をたくさん作り、昭和58年頃には海老名の広井政昭より独楽の技術を習得した。広井政昭には何でも真似をしてよいと言われたが、真似できるものではなかったという。
平成16年より長男優志に木地を指導した。その後、健三、優志は津軽藩ねぷた村での実演・製作を続けている。
平成25年10月に高円寺フェス「MY FIRST KOKESHI!」で絵つけ指導やトークイベントに参加し、平成26年1月の東京こけし友の会新年例会に優志と共に出席した。その頃一時目を悪くしていたが、その後は復調している。

左より 長谷川健三、優志父子 平成20年10月8日

長谷川健三

長谷川健三(平成26年5月20日・津軽藩ねぷた村)

長谷川健三 平成27年 鳴子全国こけし祭り実演

〔作品〕 健三のこけし製作開始は、昭和54年頃と思われる。この年に名古屋こけし会で頒布があった。父・長谷川辰雄のこけしを継承する他、川越謙作型や村井福太郎型、福原英次郎型、本人型も製作する。

下掲写真は、平成24年に鳴子の全国こけし祭りに出品されたもの。審査講評では「津軽の雪の原を駆けてきた女の子が、頬を赤くしてぐいっと見上げたような表情。愛想はないが、逞しい自然児の生命力あふれた作品は、大いに見るものを惹きつける。」と書かれた。復元と言うよりは健三自身の意匠であるが、津軽こけしの本質をよく捉えていた。


[ 21.0cm (平成24年)(全国こけし祭り)〕

作品の各種の型については〈木でこ・194〉の中根巌稿に詳しい。


〔15.5cm(長谷川辰雄型・平成26年)(山藤輝之)〕

長谷川健三
〔18.8cm(福原英次郎型・平成26年)(山藤輝之)〕

長谷川健三
〔12cm(川越謙作型・平成26年)(山藤輝之)〕

〔伝統〕津軽系温湯亜系。長谷川の祖佐々木一家はもともと温湯に居たが、後に大鰐に移住した。系統としては温湯亜系に分類される。

〔参考〕

[`evernote` not found]