本多洋(ほんだひろし:1934~2011)
系統:土湯系
師匠:岩本芳蔵/本多信夫
弟子:石川功/磯川盛雄
〔人物〕 昭和9年5月14日、県の土木技師 小石沢寅義・ヒデヲの次男として福島県信夫郡渡利に生まれる。昭和26年3月吾妻中学校を卒業。本多信夫が経営していた泉屋物産店で菓子の製造を手伝った。このころ岩本芳蔵の弟子であった村田徳次が独立し、二本松に移ったので、中ノ沢の木地師は岩本芳蔵一人になり、伝統存続を心配した洋は、昭和27年7月より、中ノ沢の岩本芳蔵に弟子入りした。鍛冶はときどき中ノ沢にやってきた兄弟子の村田徳次に習ったという。昭和28年2月、同じ芳蔵の先輩弟子であり、泉屋物産店の主人だった本多信夫・喜代子夫妻の養子となり、本多姓となった。母ヒデヲが本多信夫の実姉だった縁による。昭和30年より33年頃まで本多信夫や酒井正進のこけしの木地を挽いていた時期もあった。昭和34年、岩本芳蔵よりロクロ、刃物一式を贈られ独立した。この年木村芳子と結婚。昭和38年以降しばらく木地から離れ、美山建設、猪苗代役場公民館、教育委員会事務局などに勤務していたが、昭和45年頃からこけし製作を再開し、「たこ坊主」と称される岩本善吉の作風を継承する一人として活躍した。昭和48年には「タコ坊主会」を創立、事務局長を長く務めた。同時に猪苗代町地方研究会理事、民生児童委員、福島県教育庁職員なども務め地域の発展に深くかかわった。平成15年頃からは、体調思わしくなく、入院闘病を続け、こけしの製作は限られた数しかできない状態だった。平成23年8月17日没、行年78歳。
本多洋夫妻 平成13年9月7日
〈伊勢こけし会だより・94〉より
〔作品〕 当初は芳蔵の戦前作(描彩はおそらく本多信夫)を参考にした本人型を作って、昭和29年頃より泉屋物産店で販売した。
昭和45年のこけし再開以後は、岩本善吉の型も各種作った。同じ「たこ坊主」の作者の中では、極端なところが少なく、比較的穏やかな作風だった。
本多信夫、岩本善吉型の他に酒井正進型、岩本芳蔵型、磯谷直行型などもまれに作った。
なお、〈伊勢こけし会だより・94〉には中根巌による「本多信夫と洋のこけし」という稿があり、詳しい経歴とともに、昭和37年以降の23本の洋のこけしが年代、型ごとに写真掲載されている。
〔右端より 24.2cm(昭和39年)、21.2cm(昭和50年代)、24,2cm(平成6年)、18.2cm(平成13年)、24.2cm(昭和55年)、25.1cm平成14年)、24.3cm(平成14年)(山本吉美蔵)〕
上掲写真は右端が本多信夫より継承した型、その右の6本は岩本善吉の型。
下掲は右二本が善吉型、左端は〈 木形子談叢〉に掲載された氏家亥一型。
〔右より 24.2cm(平成11年)、24.2cm、21.2cm(平成13年)(中根巌)〕
〔系統〕 土湯系中ノ沢亜系。
〔参考〕
- 中根巌:本多信夫と洋のこけし〈伊勢こけし会だより〉(平成13年10月)