村田徳次

村田徳次(むらたとくじ:1926~2018)

系統:土湯系

師匠:岩本芳蔵

弟子:

〔人物〕 大正15年11月22日、福島県二本松市本町の青果卸業村田忠太郎、セキの5男に生まれる。兄弟は8人いた。東京の都立牛込商業に進学するが、戦争のため昭和18年に2年生で中退し、二本松に帰郷した。そのころ体調を崩して、しばしば中ノ沢温泉に湯治に通っていたが、そこで岩本芳蔵と知り合った。 芳蔵の人柄にひかれ弟子入りを決意、昭和21年21歳で芳蔵の弟子となった。修業は昭和24年まで続けた。最初の一年間は湯治を兼ねて通いであったが、後の3年間は住み込みであった。挽いた製品は主に茶道具、盆などであったが、玩具の輪抜き、輪投げ、こけし等も作った。
昭和25年芳蔵から独立の許可を得て、二本松にて「木地師」という店を開業、裁縫台、茶道具、さらに玩具のダルマ落とし、自動車、エジコ等を挽いた。
昭和27年、二本松の斎藤トキと結婚。昭和30年に父忠太郎が交通事故で急死したため、青果業とアイスキャンデー販売を手伝うことになる。
昭和36年、心機一転して大阪に移住、製造業に勤務、70歳定年まで勤め上げた。
平成30年4月13日没、行年93歳。

村田徳次からの詳細な聞書きは大阪こけし教室の中根巌により行われ、〈伊勢こけし会だより・91号〉に紹介された。

村田徳次 平成13年 〈伊勢こけし会だより・91号〉より
村田徳次 平成13年
〈伊勢こけし会だより・91号〉より


村田徳次 平成13年10月 撮影:中根巌

〔作品〕 こけしの製作は中ノ沢の修業時代に少し行ったが、本格的には昭和25年に二本松で独立してからである。昭和30年頃までで製作数は100本程度ということである。多くは「木地師」で販売されたが、一部は本多信夫の店にも卸したという。
村田徳次のこけしは、本多信夫からの継承のようである。徳次の修業時代には芳蔵は全く描彩を行わず、本多信夫が描いていたらしい。徳次によると、芳蔵が描彩を始めたのは昭和30年代で、眼の位置にボール紙で穴をあけ、それを上からなぞって苦労して描いていたという。

ここに掲げる村田徳次の5本は、本多洋の木地に描彩したものである。伊勢こけし会の熱意に応えて徳次が大阪で描いたこけしである。平成13年に伊勢こけし会で頒布された。
そのあと依頼に応じて描彩のみ行うようになった。

〔右より 21.2cm 本人型、18.2cm、18.3cm 善吉型、24,2cm、24.2cm 芳蔵型(平成13年)(中根巌)〕 〈伊勢こけし会だより・91号〉より
〔右より 21.2cm 本人型、18.2cm、18.3cm 善吉型、24,2cm、24.2cm 芳蔵型(平成13年)〈伊勢こけし会だより・91号〉より〕

右端平成14年作は面描さらに善吉に近づいている。


〔右より 24.8cm(平成14年)、24.0cm(平成13年)(高井佐寿)〕

平成14年4月には東京こけし友の会の例会のお土産こけしとして取り上げられた。

系統〕 土湯系中ノ沢亜系

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